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第36話 英雄だった日々の終わり

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第36話 英雄だった日々の終わり

古い砦は、山あいの街道を見下ろす崖の上に残っていた。城壁の半分は補修され、昔の兵舎には旅人向けの休憩所が入っている。門の脇では老人たちが卓を囲み、昼間から果実水を飲んでいた。アデマールが砦を見上げる。「まだ使ってるんだな」「街道の見張り所と、旅人の休憩所だそうです」オルヴァンが入口の案内板を読む。「上の展望台にも入れますよ」「行こう」「先に昼食にします?」「展望台」「珍しいですね」「腹減ったら降りればいいだろ」「では行きましょう」門をくぐろうとしたところで、横から声が飛んできた。「ちょうどいいところに来たわね」二人が振り返る。石壁の脇にシビラが立っていた。王国の大魔術師として動く時の外套。片手には細身の杖を持っている。アデマールが眉を上げた。「シビラ」「観光?」「そう」「羨ましいわ」「仕事?」「そうよ」オルヴァンがシビラの表情を見る。「何かありました?」「三日前から、山の獣がこの砦へ寄ってくるの。今朝は魔獣まで来たそうよ」アデマールが砦の奥を見る。「餌でもある?」「ないわ。だから調べに来たの」オルヴァンの視線が細くなる。「もう中へ?」「これから。古い地下区画を開けてもらうところよ」アデマールが笑った。「じゃあ俺たちも行く」「展望台は?」「あと」「素直ね」シビラが先に歩き出す。オルヴァンも続いた。「行きましょう、アデ」「うん」三人で砦の奥へ向かった。****古い区画の鍵を持ってきた管理人は、白髪の老人だった。腰には使い込まれた短剣が下がっている。「この先は戦後ほとんど使ってません」分厚い木戸が開く。中は狭い石造りの通路だった。天井は低く、太い支柱が一定の間隔で並んでいる。管理人が灯りを掲げる。「昔は物資庫と退避路でした。さらに下に封鎖された区画があります」シビラが尋ねる。「あなた、ここにいたの?」「最後の年だけ兵をやってました」老人はアデマールの顔を見て、しばらく止まった。「……あんた、勇者様か」アデマールが少し驚く。「分かる?」「遠くから何度も見ました。大太刀担いで、いっつも走ってた」「俺だ」老人がオルヴァンを見る。「白い賢者様も覚えてる。泥だらけなのに白い服着てた」「たぶん僕ですね」シビラが自分を指す。「私は?」「大魔法で東の外壁を半分吹き飛ばした人なら」「必要だったのよ」アデマールが吹き出した。「シビラ、やったな」「敵ごとよ」「壁も一緒に」「うるさいわね」管理人が笑った。「懐かしいな」笑い声が石の通路へ響く。その直後、オルヴァンが足を止めた。「……あります」シビラの顔も変わる。「やっぱり?」アデマールには二人ほど明瞭には感じ取れない。それでも空気の奥に、嫌なものが混じっていた。「悪魔のマナ?」「薄いです。でも地下から漏れています」オルヴァンが答える。シビラが管理人を見る。「ここから先は私たちだけで行くわ」「分かりました」老人は素直に灯りを渡した。アデマールが受け取る。「何かあったら外まで下がって」「はい」三人は奥へ進んだ。****階段を二つ降りると、幅の狭い地下通路へ出た。石壁。石床。天井を支える古い梁。アデマールが大太刀の柄へ触れる。一度抜こうとして、途中で止めた。「これ、振れないな」「振らないでください」オルヴァンが即答した。シビラも天井を見る。「本気で振ったら、私たちごと埋まるわよ」「じゃあ困った」アデマールが大太刀から手を離す。「俺、格闘苦手なんだけど」「知っています」「オル、即答しないで」「剣ほど得意ではない、という意味です」シビラが鼻で笑う。「世界で何人がその『苦手』に勝てるのかしらね」「少なくとも俺は剣の方が楽」「今日は諦めなさい」オルヴァンがアデマールの腕へ触れた。淡い光が肩から全身へ流れる。「脚と腕、上げます」「助かる」「反応も少し」「それ以上速くして壁に突っ込ませないでよ」シビラが言う。アデマールが笑う。「俺を何だと思ってる?」「昔、加速魔法のあと扉にぶつかった人」「一回だけだろ」「二回です」オルヴァンが訂正した。「オルまで」三人の前に、古い鉄扉があった。その向こうから、低い音がした。爪が石を擦る音。一つではない。アデマールの表情から笑みが消える。「多いな」「来ます」オルヴァンが短く言った。鉄扉が内側から大きく膨らんだ。次の瞬間、蝶番ごと弾け飛ぶ。****魔獣が三体、同時に飛び込んできた。犬に似た体躯。だが人間より大きい。目が黒ずみ、身体から薄い悪魔のマナが滲んでいる。アデマールが前へ出る。「アデ」オルヴァンの指が動いた。足元に淡い光。さらに速くなる。最初の魔獣が爪を振る。アデマールは身体を沈めた。拳が腹へ入る。鈍い音。魔獣の巨体が浮いた。「うわ」殴った本人が言った。そのまま壁へ叩きつけられる。「オル、上げすぎ」「まだ一段目です」「一段目?」二体目が横から飛ぶ。オルヴァンが片手を向けた。床の石の隙間から細い蔓が一気に伸びる。前脚と後脚へ絡みついた。魔獣の身体が傾く。アデマールは振り向きざまに肘を叩き込んだ。一撃。沈む。三体目はアデマールを避け、後ろのオルヴァンへ向かった。シビラが杖を上げる。「遅い」空気が鳴った。細い風の刃が一本。魔獣の足元だけを切る。姿勢が崩れたところへ、アデマールの膝が入った。石床を滑り、動かなくなる。静かになった。アデマールが自分の拳を見る。「格闘、やっぱ苦手」「今ので?」「剣ならもっと楽だった」「嫌味ね」シビラが鉄扉の残骸を跨ぐ。「まだ奥にいるわよ」オルヴァンも続く。「数が増えています」アデマールが二人を追った。「先に言っとくけど、俺の苦手を笑うなよ」「もう笑ったわ」「僕は笑っていません」「オルは優しい」「二回扉にぶつかったことは覚えています」「やっぱり笑ってるだろ」奥から咆哮が響いた。三人とも同時に前を向いた。****次の石室は広かった。それでも、大規模魔法を撃てるほどではない。中央には古い封印石。大きな亀裂が入り、そこから黒いマナが滲み出していた。その周囲を、十数体の魔獣が埋めている。さらに奥からも入ってくる。シビラが舌打ちした。「増えたわね」「封印に引かれています」オルヴァンが封印石を見る。「ここを閉じます」「どれくらい?」「少しかかります」アデマールが前へ出た。「俺が近いのやる」「じゃあ私は数ね」シビラが杖を軽く振る。「火は?」「駄目です」オルヴァンが即答した。「でしょうね」シビラの杖先に冷気が集まる。次の瞬間、空中に無数の氷の針が浮かんだ。細い。鋭い。天井にも、柱にも触れない位置に並んでいる。「《アイス・ニードル》」指先が下がる。氷の雨が走った。アデマールの左右を抜ける。頭上を通る。十数体の魔獣だけを貫く。一斉に倒れた。アデマールが振り返る。「相変わらずすごいな」「前見なさい」言われた瞬間、別の大型個体が迫っていた。アデマールは拳を構える。オルヴァンの光がさらに重なる。「もう一段」「これ以上?」「大丈夫です」魔獣の爪が落ちる。アデマールの姿が消えたように見えた。次の瞬間には懐へいる。拳。肘。踏み込んで肩。最後に掌底。巨体が後ろへ吹き飛んだ。倒れた先には別の魔獣。二体まとめて転がる。「アデ、左」オルヴァンの声。見るより先に身体が動く。一歩左へ。その脇を風刃が通過した。《ウィンド・スラッシュ》。アデマールの頬から指二本分。風の刃が三体をまとめて切り裂く。アデマールは止まらない。「近い!」「避けたでしょ」「避けたけど!」シビラはもう次の魔法を作っている。オルヴァンが封印石へ片手を置いた。もう片方の手だけで戦場を見る。一体がアデマールの死角へ入る。指先から細い電撃。魔獣の全身が硬直した。アデマールは振り返らず、後ろへ拳を打つ。命中。そのまま倒れる。シビラが笑った。「今の見えてた?」「オルが止めたから」「答えになってないわよ」オルヴァンが淡々と言う。「次、右から四体です」シビラが右を向く。まだ姿が見える前に杖を振った。床すれすれを風が走る。角を曲がってきた四体が、そのまままとめて吹き飛ばされた。アデマールが口笛を吹く。「腕落ちてないな」「戦闘中に言う?」シビラが笑った。****封印石の亀裂が光り始めた。オルヴァンが両手をつく。「少し集中します」アデマールとシビラの返事はなかった。もう動いていた。アデマールがオルヴァンの前へ入る。シビラは斜め後ろ。一体、二体、五体。奥の通路から魔獣が溢れてくる。アデマールが最初の一体を殴り倒す。二体目の突進を避け、角を掴む。「うおっ」重い。それでも身体ごと捻る。巨体を横へ投げた。三体巻き込む。シビラがその上へ杖を向けた。「伏せて」アデマールは即座に身を沈める。頭上に、数え切れない氷の槍が現れた。さっきの針より大きい。だが一本一本の向きが違う。柱と梁を避けている。「《アイス・ランス》」一斉射。氷槍がアデマールの背中すれすれを通り、投げ飛ばされた魔獣と後続をまとめて貫いた。床が揺れる。だが壁も柱も無傷だった。アデマールが立ち上がる。「今の怖いって」「当てないわよ」「知ってるけど」横から爪。アデマールが腕で受ける。オルヴァンの防御強化が光った。爪が弾かれる。「助かる!」返事の代わりに、オルヴァンの電撃が別の魔獣を痺れさせる。さらに床から蔓。二体の脚をまとめて縛る。アデマールはその間へ飛び込んだ。右の拳。左の肘。一体ずつ沈む。「格闘苦手なんじゃなかった?」シビラが聞く。「苦手だよ!」「説得力ないわね!」風刃がアデマールの背後を通る。また一体倒れる。「オル、あと?」「十秒ほど」「長いな」「短くします」「無理しなくていい!」アデマールが叫んだ直後、石室の奥で大きな音がした。壁際の古い通路。そこを塞いでいた石が崩れる。巨大な前脚が出た。アデマールの倍近い高さ。黒い角。厚い皮膚。悪魔のマナを浴びた上位魔獣が、無理やり石を押し退けて入ってくる。シビラが眉を上げる。「大きいわね」「ここでそれは邪魔だな」アデマールが前へ出る。大太刀へ一瞬だけ手を伸ばす。天井を見る。やめた。「やっぱ拳か」オルヴァンの声が飛ぶ。「アデ、三つ重ねます」「頼む」光が三度走った。腕。脚。全身。アデマールの身体を魔力が包む。大型魔獣が突進した。正面衝突。そう見えた瞬間、アデマールが消える。巨体の脇へ滑り込んでいた。拳を脇腹へ叩き込む。大きな音。魔獣が横へずれる。だが倒れない。「硬い」「だから上です」オルヴァンが視線を上げた。喉の下。アデマールも見る。それだけで分かった。大型魔獣が首を下げ、角を振る。アデマールは床すれすれまで身体を沈めた。背後からシビラの風刃が飛ぶ。アデマールの髪を揺らして通過。喉元へ当たる。傷が開く。「今!」オルヴァンの蔓が大型魔獣の前脚へ絡みついた。一瞬だけ止まる。アデマールが踏み込む。拳が傷口へ入った。巨体が浮いた。本当に、少しだけ床から離れた。シビラが目を丸くする。「拳で浮かせる?」「オルの強化!」大型魔獣が倒れかける。だがまだ動く。その時、左右の通路からさらに魔獣が雪崩れ込んだ。十。二十。数える意味がなくなる。オルヴァンは封印から手を離せない。アデマールは大型個体の正面。一瞬だけ、敵の数が三人を上回った。シビラが息を吐く。「本当に多いだけね」杖を両手で持った。冷気が石室を駆け抜ける。空中。壁際。床すれすれ。無数の氷槍が一斉に生まれる。アデマールの左右にも。オルヴァンの頭上にも。隙間を埋め尽くすほどの数。それでも一本たりとも二人へ向いていない。「シビラ」アデマールが笑った。「やれ」シビラも笑う。「言われなくても」杖が振り下ろされた。氷槍が放たれる。轟音。無数の敵が一斉に止まった。前列を貫き、その間を次の槍が抜け、さらに後ろを穿つ。砦の柱を一本も折らず、二人の髪一本にも触れない。数十体の魔獣だけが、次々に倒れていく。その中をアデマールが走った。氷槍の間。ほんのわずかな隙間。迷わず大型魔獣の懐へ入る。オルヴァンの電撃が喉へ走る。硬直。シビラの風刃が傷をもう一度開く。アデマールの拳が入った。一撃。大型魔獣の身体が崩れ落ちる。同時にオルヴァンが言った。「閉じます」封印石から白い光が広がった。黒い亀裂を覆う。石室を満たしていた悪魔のマナが急速に薄れる。残っていた魔獣たちの動きが鈍る。オルヴァンの指が最後に閉じた。亀裂が消えた。静寂。氷が一つ、床へ落ちる音だけがした。****アデマールが拳を開いたり閉じたりした。「痛い」「見せてください」オルヴァンがすぐ近づく。拳には少し赤みがあるだけだった。「骨は平気です」「よかった」「アデにしては上出来ですね」シビラが杖を肩へ乗せた。アデマールが見る。「格闘苦手なんだって」「知ってるわよ」シビラは倒れた魔獣の群れを見回す。それからアデマールとオルヴァンを見る。口元が上がった。「腕は落ちてないようね」アデマールも笑う。「まあな」オルヴァンがシビラを見る。「シビラも相変わらずですね」「当然でしょ」アデマールが倒れた魔獣と、無傷の柱を見比べる。「氷、一本も壁に当ててない?」「一本くらい当たったかも」「嘘ですね」オルヴァンが言う。シビラが笑った。「ばれた?」アデマールも笑う。「やっぱ化け物だな」「あなたに言われたくない」「僕も同意します」「オル、どっちに?」「二人ともです」三人で笑った。シビラが封印石を見る。「で、終わり?」「終わりです」オルヴァンが答える。アデマールが拳を振る。「じゃあ展望台行こう」「まだ行くの?」シビラが呆れる。「来た目的だし」「僕も行きたいです」「オルまで?」アデマールが嬉しそうに笑う。「ほら」「はいはい」三人は石室を出た。****地上へ戻ると、管理人が待っていた。「どうでした?」オルヴァンが答える。「古い封印が緩んでいました。もう閉じています」「そうですか……」老人の肩から力が抜ける。砦の外へ出ると、周囲へ集まっていた獣たちが山へ戻り始めていた。管理人はその様子を眺めた。「本当に帰っていくな」門の近くにいた別の老人も寄ってくる。「昔もここを助けてもらったのに、またか」アデマールが首を振る。「今日は三人でやった」「見れば分かる。あんたら、昔からそうだった」老人たちが笑う。「昔は飯を食う暇もなく、次はどこだって話ばっかりしてたな」「忙しかったので」オルヴァンが答える。「今は?」アデマールが笑う。「展望台見て、そのあと酒飲む」老人二人が大笑いした。「そっちの方がいい!」管理人がアデマールの背中を叩く。「今夜、昔ここにいた連中も呼ぶ。飲んでいけ」「いいの?」「次に来る時も、戦じゃなく酒を飲みに来てくれ」アデマールが笑った。「そうする」オルヴァンも頷く。「ぜひ」シビラが肩をすくめた。「今日は帰れそうにないわね」****展望台からは、山あいの街道が遠くまで見えた。荷馬車が進んでいる。麓には畑。村の屋根。遠くには羊の群れも見える。アデマールが石壁へ腕を置いた。「ここから見たの覚えてる?」「覚えています」「景色見た?」「ほとんど」オルヴァンが笑う。「アデは?」「見てない」少し離れた場所でシビラが風に髪を揺らしている。アデマールが呼ぶ。「シビラ」「何?」「昔ここから景色見た?」「見てないわよ」三人で笑った。しばらく誰も喋らなかった。風だけが通る。シビラが山を見たまま言う。「悪くないわね」「はい」オルヴァンが答える。アデマールも頷いた。「うん」昔は、ここから次の戦場を見ていた。今は、街道を進む荷馬車を眺めていた。****夜の酒場は賑やかだった。元兵士が何人も集まり、昔話より今の暮らしの話をよくした。孫が生まれた。葡萄が豊作だった。街道沿いに新しい宿ができた。管理人の息子は料理が下手だ。シビラは酒を飲みながら笑い、オルヴァンは次々に料理を勧められ、アデマールは最後には老人たちと腕相撲をしていた。「格闘苦手って言ってなかった?」シビラが横から言う。「腕相撲は格闘じゃない」「今日あれだけ殴っといてよく言うわね」オルヴァンがアデマールの拳を見る。「もう痛くないですか?」「平気」「あとで冷やします」「オルがやってくれる?」「もちろんです」「じゃあちょっと痛い」「急に?」「甘えたい」シビラが杯を置いた。「はいはい。始まった」老人たちは事情を知らず笑っている。アデマールは気にせずオルヴァンの肩へ寄った。****宿へ戻った頃には夜も遅かった。シビラとは廊下で別れる。「私は明日の朝、王都へ戻るわ」「もう?」「仕事なの」「大変だな」「他人事みたいに言わないで」オルヴァンが笑う。「また会いましょう」「ええ。今度は仕事抜きでね」アデマールが言う。「ベルトランも呼ぼう」「そうね。四人で飲むくらいなら」シビラが自分の部屋へ入る。扉が閉まった。アデマールがオルヴァンを見る。「四人で飲みたいな」「僕もです」「次は普通の旅で」「それがいいですね」二人も部屋へ入った。****窓を少し開ける。山の夜気が入ってきた。オルヴァンは椅子へ座り、アデマールの右手を取った。「見せてください」「もう平気だって」「約束しましたから」赤みの残っていた拳へ冷たい魔法を薄く当てる。アデマールが気持ちよさそうに息を吐いた。「オルの強化、すごかった」「アデが無茶をするので」「格闘苦手だから仕方ない」「苦手な人は上位魔獣を拳で浮かせません」「シビラと同じこと言う」「事実です」アデマールが笑った。オルヴァンも笑う。手当てが終わっても、オルヴァンはその手を離さなかった。指を絡める。窓の向こうには、さっきまでいた砦が見えた。「アデ」「ん?」「僕、旅に出てよかったです」アデマールが顔を上げる。オルヴァンは窓の外を眺めていた。「いろいろ見られたから?」「それもあります」少し間を置く。「昔行った場所へ、今のアデと来られるのが好きです」アデマールの表情が変わった。オルヴァンは続ける。「昔は走り抜けただけの町で食事をして、景色を見て、ゆっくり眠って」口元が柔らかくなる。「嫌だった場所まで、好きになりました」アデマールは答えなかった。絡めていた手を引く。オルヴァンの身体が椅子から立ち上がる。そのまま胸へ抱き込んだ。「アデ」首元へ顔が埋まる。オルヴァンはすぐ背中へ腕を回した。アデマールが強く抱く。「それ、すげえ嬉しい」「僕も嬉しいです」首筋へ口づける。オルヴァンの目元が緩む。今度は自分からアデマールの頬へ触れ、唇を重ねた。離れる。アデマールがまた求める。何度か口づけたあと、オルヴァンが額を寄せた。「いつか住む場所を決めたら、客間が欲しいですね」アデマールが瞬きをする。「客間?」「はい。シビラやベルトランが泊まりに来られるように」一瞬のあと、アデマールの顔が明るくなった。「それいい」「でしょう?」「ヨリスも泊まれる」「ユスタシュも、休みが取れれば」「取らせよう」「僕たちに権限はありませんよ」二人で笑う。アデマールが考える。「客間二つ?」「それくらいあるといいですね」「ベルトランのだけ狭くしよう」「同じ大きさにします」「何で」「アデ」「オルと仲良すぎる」「まだ警戒してるんですか?」「夫だから」オルヴァンが呆れたように笑った。「僕が一緒に寝るのはアデだけですよ」アデマールが止まった。次の瞬間、腕が腰へ回る。オルヴァンの身体を強く引き寄せる。唇が重なった。オルヴァンは驚かない。むしろ嬉しそうに首へ腕を回す。自分から次の口づけを返した。アデマールの手が背中を撫でる。身体が密着する。オルヴァンの指はもう黒いシャツの襟へ掛かっていた。緩める。アデマールがその顔を見る。「オル」「はい」白い服の背へ手が回る。留め具へ触れる。オルヴァンがさらに身体を寄せた。「今日のアデ、格好よかったです」「格闘だったのに?」「だからです」アデマールの目元が熱を帯びる。「苦手なのに?」「とても格好よかったです」アデマールは返事より先にオルヴァンを抱き上げた。腕が首へ回る。脚が腰へ絡む。オルヴァンが笑う。「嬉しそうですね」「オルがそんなこと言うから」寝台へ向かう途中で、オルヴァンから唇を重ねた。アデマールもすぐに返す。二人の身体が寝台へ沈んだ。****夜更け。オルヴァンは毛布の中でアデマールの胸へ収まっていた。汗の残る髪へ、アデマールの指が触れる。ゆっくり梳く。オルヴァンが頬を寄せる。「アデ」「ん?」「庭も欲しいです」「家の?」「はい」「何植える?」「花と、少し野菜」「俺もやる」「一緒にやりましょう」アデマールが嬉しそうに笑う。「客間二つ」「はい」「庭」「はい」「広い台所も欲しい」「料理します?」「オルとやる」「では欲しいですね」アデマールの腕が背中へ回る。「なんか楽しいな」「僕もです」オルヴァンが胸元から顔を上げる。「まだ場所も決まっていませんけどね」「いいよ。今は考えるだけで」頬へ口づける。オルヴァンも返した。「アデ」「ん?」「昔の旅が終わって、よかったですね」アデマールは少し黙った。「うん」オルヴァンの髪を撫でる。「今の旅ができたから」アデマールは胸の中の身体を抱き寄せた。「俺も今が好き」オルヴァンが笑う。「僕もです」指が毛布の中で絡む。砦の向こうには、昔と同じ山がある。その山を越えた先へ、明日も二人で進む。今度は急がずに。