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第38話 宿じゃない朝

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第38話 宿じゃない朝

「本当に使っていいんですか?」オルヴァンが鍵を受け取りながら尋ねる。家の持ち主である農夫は、大きく頷いた。「十日ほど隣町へ行くんだ。空けとくより、人がいた方がいい。薪も使ってくれ」「ありがとうございます」「畑の奥だけ入らなきゃ、あとは好きにしていいぞ」農夫は玄関脇の籠を指した。「卵は朝になると隣の婆さんが持ってくるかもしれん」「かもしれない?」「持ってくる時と持ってこない時がある」「なるほど」アデマールが家を見上げる。石壁に木の屋根。窓は四つ。裏には小さな物干し場があり、横には薪小屋もあった。「結構広いな」「二人なら十分ですね」農夫が笑う。「じゃあ頼んだぞ」荷車へ乗り、そのまま道を下っていく。二人はしばらく見送った。アデマールが鍵を持つオルヴァンを見る。「入る?」「入りましょう」鍵を回す。扉を開ける。誰もいない家の匂いがした。****最初に見つけたのは台所だった。大きな卓。壁際の竈。鍋が三つ。棚には皿と木杯が並んでいる。オルヴァンが戸棚を開ける。「塩はあります」「酒は?」「ありません」「重要なのに」「買いに行きましょう」次は居間。二人掛けの長椅子。少し大きな卓。窓。奥には寝室が二つあった。アデマールが最初の寝室を覗く。寝台が一つ。振り返る。「ベッド一つだ」「夫夫ですからね」「よかった」「何を心配していたんです?」アデマールは隣の部屋も開ける。こちらには小さな寝台が一つと、空の棚。「こっちもある」「物置に近いですね」「シビラなら寝られる」「本人のいないところで客室を決めないでください」アデマールが少し考える。「ベルトランは?」「まだ何も決めていません」「じゃあ薪小屋」「アデ」オルヴァンが笑った。家の中を一通り見終えると、二人は荷物を居間へ置いた。アデマールが腰へ手を当てる。「何からやる?」「食べるものを買いに行きましょう」「酒も」「はい、酒もです」アデマールは満足そうに頷いた。****村の店は小さかった。野菜。豆。塩漬け肉。干した香草。乳。酒。オルヴァンが籠へ入れていく。アデマールも隣から入れる。「肉多くないですか?」「三日分」「四日分あります」「余ったら明日食う」「明日も三日分残りますよ」肉を一つ戻す。今度はアデマールが大きな丸パンを持つ。「これ」「いいですね」珍しく意見が一致した。店を出る頃には、二人の荷物はかなり増えていた。帰り道で、アデマールが酒瓶を掲げる。「これうまそうだった」「店の人が勧めていましたね」「夜飲もう」「夕食のあとに」「夕食と一緒じゃ駄目?」「料理を作りながら飲み始めるでしょう?」「よく分かってる」「長い付き合いですから」二人で笑った。家へ戻る。玄関を開ける。アデマールが一歩入って、少し止まった。「ただいま」オルヴァンも止まる。それから笑った。「おかえりなさい」アデマールが振り返る。「逆じゃない?」「どちらでもいいでしょう」「そっか」二人は買い物袋を持ったまま笑った。****夕食の準備を始める。オルヴァンが野菜を切る。アデマールは薪を持って竈の前へ座った。「火つける」「お願いします」薪を組む。火を入れる。ぱちぱちと小さな音がする。アデマールが少し嬉しそうに眺めた。「宿だとこれやらないよな」「自分たちで火を起こす必要はありませんからね」「これ結構好きかも」「では明日の朝もお願いします」「任せろ」鍋へ水。豆。野菜。塩漬け肉。オルヴァンが味を見る。「アデ」「ん?」「味見してください」木匙が差し出される。アデマールがそのまま口をつけた。「うまい」「塩は?」「ちょうどいい」「本当に?」「俺の舌信用ない?」「おいしいものなら何でも『うまい』と言うので」「オルが作ったのは全部うまい」「それです」オルヴァンは自分でも味を見る。少し塩を足した。アデマールが横から覗く。「やっぱ足した」「少しだけです」パンを切る。皿を並べる。いつもの旅籠なら、料理が出てくるのを待つだけだった。今日は卓を拭くところから二人でやった。出来上がった煮込みを鍋ごと運ぶ。向かい合って座る。アデマールが杯を持ち上げる。「じゃあ」「何に乾杯します?」「留守番」「留守番に?」「初日だから」オルヴァンも杯を上げた。「では、留守番初日に」木杯が軽く触れた。****翌朝。オルヴァンが目を覚ますと、隣にアデマールはいなかった。代わりに、どこかから小さな物音がする。木がぶつかる音。戸棚。何かを落としかけて受け止めた音。オルヴァンは寝台から起きた。上着を羽織る。台所へ向かう。アデマールが竈の前でしゃがんでいた。火はまだついていない。「おはようございます」「おはよう」アデマールが振り返る。「起こした?」「少し音がしました」「静かにしたつもりだった」「戸棚を三回開けました?」「二回」「三回です」アデマールが首を傾げる。「じゃあ三回かも」オルヴァンが隣へしゃがむ。「何を探していたんです?」「火打ち石」「そこです」竈の横の小棚を指す。アデマールが見る。「昨日ここだった?」「昨日もそこでした」「覚えてなかった」火を起こす。昨日より少し手間取った。それでも薪へ火が移る。アデマールが満足そうに座る。「ついた」「はい」オルヴァンが手を火へかざす。「暖かいですね」「朝ちょっと冷えるな」「村は標高がありますから」二人でしばらく火を見ていた。アデマールが立つ。「朝飯作る?」「作りましょう」棚から昨日のパン。残った煮込み。乳。そこへ玄関が叩かれた。二人が顔を見合わせる。アデマールが出る。扉の外に、小さな籠が置いてあった。卵が六つ。誰もいない。遠くの家の前で、杖を持った老婆がこちらを見ていた。アデマールが手を上げる。老婆も一度だけ手を上げ、そのまま家へ入った。オルヴァンが後ろから籠を見る。「本当に来ましたね」「持ってくる日だった」「お礼をどうしましょう」「何か返す?」「夕食を少し多めに作りましょうか」「いいな」アデマールが卵を持ち上げる。「朝はこれ焼こう」「お願いします」「俺?」「火を任せましたから」「卵まで?」「嫌ですか?」「やる」アデマールが袖を捲った。****卵は少し焦げた。ただし食べられないほどではない。オルヴァンは一口食べる。「おいしいですよ」「ほんと?」「はい」アデマールも食べる。「ちょっと焦げてる」「香ばしいです」「オル優しいな」「本当においしいですよ」アデマールは嬉しそうにもう一口食べた。朝食後、二人で皿を洗う。アデマールが水を汲み、オルヴァンが洗う。途中から交代。洗い終えた皿を並べる。それから洗濯。庭先へ紐を張る。シャツ。タオル。下着。風が吹く。アデマールが洗った黒いシャツを広げる。「これ結構楽しい」「洗濯が?」「干す方」「では全部お願いします」「全部?」オルヴァンが籠ごと渡す。「楽しいのでしょう?」「言わなきゃよかった」それでもアデマールは全部干した。最後にオルヴァンの白いシャツを丁寧に伸ばす。皺を手で整える。オルヴァンが隣から見る。「それだけ丁寧ですね」「オルのだから」「自分のも大事にしてください」「着られればいい」「そういうところです」庭の向こうから子どもの声がした。二人が見る。垣根越しに、小さな顔が二つ並んでいた。「こんにちは」オルヴァンが声をかける。子どもたちは少しだけ近づいた。片方が皿を持っている。「母ちゃんが、これ」焼いた芋と豆を潰したものが乗っていた。「昨日入った人だろ?」「はい。数日だけ家を借りています」「これ、食べてって」オルヴァンが受け取る。「ありがとうございます」アデマールが尋ねる。「何か返した方がいい?」「知らない」子どもは正直だった。もう一人が言う。「うち、昨日もらった野菜いっぱいあるから」「じゃあ夜、煮込み作ったら持ってく」「肉入ってる?」「入ってる」「じゃあ持ってきて!」子どもたちは元気よく帰っていった。オルヴァンが笑う。「決まりましたね」「肉多めにしよう」「昨日減らしておいてよかったでしょう?」「結果的には」「計画通りです」「オルが?」「僕が」二人は顔を見合わせて笑った。****昼過ぎ。洗濯物が風に揺れている。買い物にも出た。薪も割った。夕食の煮込みも、あとは火にかけるだけ。やることがなくなった。アデマールが居間の長椅子へ寝転がる。「暇だ」「いいことですよ」オルヴァンは窓際で本を開いていた。「宿でも暇な時あるけど、なんか違う」「何がです?」「分かんない」アデマールは天井を見る。少しして、身体を起こした。オルヴァンの隣へ行く。「詰めて」「はい」長椅子へ二人で座る。アデマールが肩へ頭を乗せた。「本読んでいいよ」「読みにくいですよ」「じゃあ俺が下」今度はオルヴァンの膝へ頭を移す。オルヴァンが笑った。「結局そこなんですね」「落ち着く」本を開き直す。アデマールは目を閉じた。オルヴァンの指が自然に髪へ触れる。窓の外で、洗濯物が揺れている。誰かの家の犬が一度吠えた。遠くで斧の音。そのくらいしか聞こえない。アデマールが目を閉じたまま言う。「今日、もうどっか行かなくていいんだよな」「はい」「明日もここ?」「はい」「明後日も?」「まだここです」アデマールの口元が緩む。「なんかいいな」「そうですね」それから本当に昼寝をした。****夕方。大鍋の煮込みを少し別の器へ移す。アデマールが持つ。「どの家?」「子どもたちはあちらへ帰っていきました」二人で隣家へ行く。玄関を叩く。昼の子どもが出てきた。後ろから母親らしい女性も来る。「まあ、わざわざいいのに」「卵と昼の料理のお礼です」オルヴァンが答える。女性が煮込みを見る。「助かるわ。今日は畑が長引いてて」子どもが器を覗く。「肉!」「入ってるぞ」アデマールが言う。「やった!」女性が笑う。「ありがとう。今度うちの畑の豆も持ってくわ」「そんなにいただいたら、また何か返さないと」「そうやって回るのよ」女性は簡単に言った。オルヴァンが少し目を細める。「では、ありがたくいただきます」帰り道。アデマールが呟く。「何か面白いな」「何がです?」「野菜もらって、飯返して、また豆もらうんだろ?」「そうみたいですね」「終わらないじゃん」「終わらなくていいんでしょう」アデマールは少し考えた。「そっか」家へ戻る。もう夕方の光だった。窓に灯りを入れる。二人で卓につく。今日は自分たちで作った夕食を、自分たちでよそった。****夜。酒瓶が空になりかけていた。アデマールは長椅子へ深く座り、オルヴァンはその隣にいた。卓には洗った杯が二つ。竈の火は小さくなっている。「風呂ないのだけ惜しいな」「簡単に身体は洗えましたよ」「大きいの欲しい」「それは僕もです」アデマールが笑う。「オル」「はい?」「明日もここで起きるんだな」「はい」アデマールは黙った。それからオルヴァンの腰へ腕を回した。「ちょっと嬉しい」「僕もです」オルヴァンが肩へ頭を寄せる。アデマールは頬へ口づけた。一度。もう一度。オルヴァンが顔を上げる。唇が重なる。いつものキスより少し長い。離れても、アデマールの腕は腰に残っている。「アデ」「ん?」「今日はよく甘えますね」「駄目?」「嬉しいです」その返事で、アデマールがもう一度抱き寄せる。オルヴァンも背中へ腕を回した。「なんかさ」「はい」「明日もここにいて、また朝飯作って、洗濯してって思ったら」少し考える。「オルにくっつきたくなった」オルヴァンの表情が柔らかくなる。「では、くっついていてください」「もうちょっと?」「好きなだけ」アデマールが首元へ頬を寄せる。オルヴァンの指が髪へ入る。しばらくそのまま。どちらも寝室へ急がなかった。火がさらに小さくなる。外では風が物干し紐を揺らしていた。****翌朝。アデマールが先に起きた。今度は火打ち石の場所を覚えていた。薪を組む。火をつける。乳を温める。昨日もらった卵を二つ割る。後ろで足音がした。「おはようございます」「おはよう」オルヴァンが台所へ入る。竈の火を見る。「今日は早かったですね」「場所覚えた」「よかったです」オルヴァンが窓を開ける。朝の空気が入ってくる。昨日干した洗濯物。庭。隣家の煙突から上がる煙。昨日と同じ景色だった。オルヴァンがそれを見てから、アデマールを見る。「今日は何をします?」「朝飯食ってから決めよう」「はい」アデマールが卵を焼く。オルヴァンがパンを切る。昨日より少しだけ手際がよかった。ただ、それだけだった。