第39話 庭で食べるとおいしい
第39話 庭で食べるとおいしい
果樹園へ着いた時、最初に見えたのは赤い実だった。緩やかな丘一面に低い果樹が並び、その間を細い道が続いている。少し離れた場所には母屋と納屋があり、庭先には大きな卓と長椅子が置かれていた。「いい匂いですね」オルヴァンが足を止める。熟した果実の甘い香りと、土と草の匂いが混じっている。アデマールは道沿いの木を見た。「これ全部食える?」「全部は駄目です」「分かってる」農園の女主人が笑いながら近づいてきた。「食べる分なら好きに採っていいよ。売り物の籠だけ間違えないでね」「ありがとうございます」「宿はあっち。昼までは好きに見て回っていいよ。午後から暇なら、収穫も手伝ってくれると助かる」アデマールがすぐ答える。「やる」「早いですね」「楽しそうだから」オルヴァンも笑った。「僕も手伝います」二人は荷物を小さな離れへ置き、そのまま果樹園へ戻った。****最初の一個は、オルヴァンが採った。赤く色づいた果実を手の中で転がし、枝から丁寧に外す。「アデ」「ん?」オルヴァンが果実を差し出す。「半分にします?」「そのまま食う」受け取って齧る。ぱきりと小気味いい音がした。アデマールの目が少し大きくなる。「甘い」「本当ですか?」オルヴァンも同じ木から一つ採る。一口。「おいしいですね」「だろ?」アデマールがなぜか得意そうに言う。「アデが育てたわけではありませんよ」「最初に食った」「それだけです」二人は木の間を歩いた。摘んでいい場所では、形のいいものを選んで籠へ入れる。アデマールは最初こそ大きい実ばかり狙っていたが、女主人から「色を見るんだよ」と教わると、次からは赤みの深いものを選ぶようになった。「これ」「いい色ですね」「こっちは?」「少し早そうです」「じゃあ残す」アデマールが枝から手を離す。隣でオルヴァンが笑った。「素直ですね」「教わったんだから従うだろ」「そういうところ、好きですよ」アデマールが止まる。オルヴァンはもう次の木を見ていた。「今の、もう一回」「何がです?」「好きって」「聞こえていたでしょう?」「聞こえたけど」「では十分です」アデマールが追いかける。「もう一回」「収穫してください」「オル」「はいはい。好きですよ」「よし」満足してまた実を採り始める。近くで作業していた女主人が、聞こえていたらしく肩を揺らしていた。****午後からは収穫を手伝った。特別なことはしない。籠を持つ。実を採る。いっぱいになったら運ぶ。傷んだものを分ける。枝を切るところは教わった通りに鋏を入れる。アデマールが少し太い枝を見上げる。「これも?」「それは残す」女主人が言う。「来年も実がつくからね」「なるほど」アデマールは鋏を下ろした。オルヴァンはその隣で、摘んだ果実を傷の有無で分けている。「こっちは?」「ジャム用だそうです」「傷あるやつ?」「はい。味は問題ないそうですよ」アデマールが一つ手に取る。「食える?」「仕事中ですよ」「一個だけ」「さっきも聞きました」女主人が遠くから笑う。「食べていいよ!」アデマールがすぐ齧った。オルヴァンが呆れたように見る。「許可が出た瞬間ですね」「早い方がうまい」「そういうものですか?」「今決めた」二人は夕方まで手伝った。果樹園の仕事は、英雄の力を使うまでもない。だからこそ、二人とも妙に楽しんでいた。籠を運び、手を汚し、枝の間を歩く。途中でオルヴァンの頬に土がついた。アデマールが指で拭う。「ついてた」「ありがとうございます」今度はアデマールの額に葉が張りついている。オルヴァンが取る。「アデも」「どこ?」「もう取りました」「見たかった」「何をです?」「葉っぱついてる俺」「鏡でも見ます?」「オルが笑ったから、そんな変だったのかなって」「少しだけ」オルヴァンの口元が緩む。アデマールも笑った。****夕方、今度は台所へ呼ばれた。傷のある果実を大鍋へ入れ、砂糖と一緒に煮る。女主人が木匙で混ぜながら言う。「焦げやすいから、底からね」オルヴァンが交代する。「こうですか?」「そうそう」アデマールも横から覗く。「俺もやる」「交代します?」「うん」木匙を受け取る。混ぜる。少しして腕が止まる。「重くなってきた」「煮詰まっていますからね」「もう食える?」「まだです」「味見は?」「それならいいんじゃないですか?」女主人が小皿を渡してくれた。オルヴァンが少し取り、息を吹いて冷ます。アデマールが口を開ける。「自分で食べられますよね?」「熱い」「僕も熱いです」「オルが冷まして」オルヴァンは笑いながら、もう一度息を吹いた。「はい」「うまい」アデマールはすぐ言う。「まだ熱いでしょう」「でもうまい」「舌、平気ですか?」「平気」オルヴァンも味を見る。「甘いですね」「パンにつけたい」「明日の朝ですね」「今でもいい」「夕食前です」女主人が笑う。「夫夫でいると毎日こんな感じ?」「だいたい」「だいたいです」また同時に答えた。****夕食は庭の大きな卓で食べることになった。農園の家族と一緒に、焼いた肉、豆、野菜、厚く切ったパンが並ぶ。出来たばかりのジャムも、小さな器で出てきた。アデマールが真っ先にパンへ塗る。「まだ食べるんですか?」「作ったから」「さっき味見もしましたよね?」「味見は別」オルヴァンも少し塗る。一口食べる。「庭で食べると、なんだかおいしいですね」女主人の夫が笑う。「外で働いたから腹減ってるだけだよ」アデマールが頷く。「それもある」卓の上を夕方の風が通る。畑の向こうでは、日の光が少しずつ赤くなっていた。食事が終わっても、すぐには立たなかった。誰かが酒を出し、少しずつ杯へ注ぐ。農園の家族は明日の天気や、次に採る実の話をしている。アデマールは椅子へ深く座った。オルヴァンが隣へ来る。肩が触れる。「疲れました?」「ちょっと」「楽しかったですね」「うん」アデマールがオルヴァンの手へ自分の手を重ねた。指を絡める。「明日もやる?」「手伝っていいなら」「じゃあやろう」それだけ決めた。****翌朝。庭へ出ると、小さな鉢が卓の上に置かれていた。緑の葉が何本も伸びている。女主人が水を撒きながら言う。「昨日よく働いてくれたから。持ってく?」オルヴァンが鉢を見る。「香草ですか?」「肉にも魚にも使えるよ。丈夫だから、旅の途中でも水さえやれば大丈夫」アデマールがしゃがむ。葉を少し触る。「いい匂い」「欲しいですか?」「欲しい」オルヴァンが女主人を見る。「いただいてもいいんですか?」「もちろん」小さな鉢を受け取る。アデマールが覗き込む。「枯らさない?」「二人で世話すれば大丈夫でしょう」「俺、水やる」「毎日多すぎるくらいやりそうですね」「じゃあオルが止めて」「分かりました」アデマールが鉢を持つ。「俺が持つ」「落とさないでくださいね」「落とさない」そのまま離れへ運んだ。窓辺へ置く。朝の光が葉へ当たる。二人でしばらく眺めた。「旅に鉢って変じゃない?」「少しだけ」「でもいいな」「はい」アデマールが葉を一枚軽く撫でる。「今日から一緒だな」オルヴァンが笑った。「増えましたね」「何が?」「旅の仲間が」「植物だけど」「植物ですね」二人で笑った。****その日も果樹園を手伝った。昼は庭で食べた。午後は昨日とは別の区画。夕方には、二人とも服の裾に少し土がついていた。離れへ戻る前、オルヴァンが小さな花を一輪見つける。庭の端に咲いている。女主人へ聞く。「一本いただいても?」「どうぞ」オルヴァンが摘む。アデマールの前へ立つ。「何?」「じっとしてください」黒い髪の耳元へ花を挿す。アデマールが目だけ横へ向ける。「似合う?」「似合います」「ほんと?」「はい」アデマールの顔が緩む。「じゃあオルも」もう一輪もらう。今度はアデマールが白い髪へ挿した。「こっちの方が似合う」「自分で挿したからでは?」「違う。オルだから」オルヴァンが笑った。二人とも花をつけたまま、夕食へ向かった。農園の家族から何も言われなかった。ただ、女主人だけが二人を見て笑っていた。****夜。離れへ戻る。窓辺の鉢へ水を少しだけやる。オルヴァンが土を見る。「今日はこれくらいでいいですね」「もっといらない?」「いりません」「分かった」アデマールは素直に水差しを置いた。オルヴァンが振り返る。まだ髪に花がついている。アデマールも同じだった。二人とも気づいて、笑う。「まだつけてた」「アデもですよ」オルヴァンが手を伸ばす。アデマールの髪から花を取ろうとする。その手首を、アデマールが掴んだ。オルヴァンが目を上げる。次の瞬間、腰へ腕が回った。身体が引き寄せられる。唇が重なった。オルヴァンは驚くより先に、アデマールの首へ腕を回した。強く抱く。自分から次の口づけを返す。アデマールの手が背中を滑る。オルヴァンの指が黒いシャツの襟へ掛かった。緩める。言葉はまだなかった。アデマールが頬へ、耳の下へ、首筋へ口づける。オルヴァンの身体がさらに近づく。白い服の留め具へアデマールの指が触れた。オルヴァンはその手を止めず、むしろアデマールの胸元へ自分から身体を寄せる。ようやくアデマールが小さく言った。「今日、ずっと触りたかった」オルヴァンの目元が柔らかくなる。「僕もです」その返事の直後には、また唇が重なっていた。アデマールが身体を抱き上げる。オルヴァンの脚が自然に腰へ絡む。「アデ」「ん?」「花、落ちました」「あとで拾う」「はい」オルヴァンが笑う。その笑顔まで欲しくなったように、アデマールがまた口づける。二人の身体が寝台へ沈んだ。****夜更け。窓辺の鉢は、月明かりの中にあった。毛布の中では、オルヴァンがアデマールの胸へ頬を寄せている。髪は少し乱れ、額には汗が残っていた。アデマールが指で整える。「疲れた?」「少し」「明日、収穫できる?」「できますよ」オルヴァンが笑う。「アデは?」「できる」「本当に?」「たぶん」オルヴァンが肩を揺らした。アデマールはその頬へ口づける。「何笑ってんの」「今日、格好よく収穫していた人とは思えなくて」「収穫は格好よくなくていいだろ」「僕は好きでしたよ」アデマールの目が少し細くなる。「また言った」「聞こえました?」「聞こえた」オルヴァンが胸へもう少し寄る。「今日はたくさん働きましたね」「うん」「明日もですね」「うん」アデマールは窓辺を見る。小さな鉢。その脇には、床から拾って置いた二輪の花がある。「水やるの忘れないようにしないとな」「僕が覚えています」「俺も覚える」「では二人で」アデマールがオルヴァンの背中へ腕を回す。「うん」オルヴァンも腰へ腕を回した。窓の外では、果樹の葉が夜風に揺れていた。