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第4話 霧の向こうの鈴

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第4話 霧の向こうの鈴

高原へ出た途端、視界が一気に開けた。なだらかな丘がいくつも連なり、その斜面を白や黄色の小さな花が埋めている。その向こうには青い湖。さらに遠くには、まだ雪の残る山並みが見えた。オルヴァンが足を止める。「綺麗でしょう?」「うん」返事が早かった。オルヴァンが横を見る。アデマールは湖ではなく、自分を見ている。「今、僕を見て言いましたよね」「見てた」「景色も見てください」「見たよ。綺麗だった」「だった?」アデマールが笑う。「今はオル見てるから」オルヴァンは少しだけ頬を緩めた。「せっかく高原まで来たのに」「両方見ればいいだろ」「では、今日は最後に一つ決めませんか?」「何を?」オルヴァンはもう一度、花の丘を見る。「今日一番よかったもの」アデマールがすぐ答えた。「もう決まった」「まだ着いたばかりですよ」「たぶん変わらない」「ちゃんと一日見てから決めてください」「はいはい」二人は並んで丘を下り始めた。****高原の小さな町では、朝から山羊乳の匂いがしていた。低い石造りの家。木柵。軒先に干された草。広場には丸い山羊チーズが並び、その隣では薄い色の白葡萄酒が売られている。アデマールが早速立ち止まった。「食べる?」「まだ朝ですよ」「朝飯は食ったけど、旅先のは別」「そういう理屈なんですね」結局、二人で小さなチーズを一つ買った。少し硬い外側を切ると、中は柔らかい。オルヴァンが一口食べる。「おいしいです」「じゃあこれ、一番候補?」「まだ早いです」「厳しいな」少し先では、羊の群れが坂を上っていた。その後ろを少女が歩いている。腰には小さな鈴。手には長い杖。さらにその後ろから、少年が一人ついていた。少女が二人へ気づく。「旅の人?」「そう」アデマールが答える。少女はエッダと名乗った。少年は弟のニルス。家族で羊を飼っているという。オルヴァンが羊の首元を見る。一頭だけ、小さな鈴をつけている。「全部にはつけないんですね」「うん。群れの先にいる子だけ」エッダが答える。「霧が出た時、音が多いと分からなくなるから」「霧、多いの?」アデマールが聞く。「午後になると急に出る日もあるよ」エッダは杖で山側を指した。「霧が来たら、歩き回らないの。鈴を鳴らして、知ってる場所で待つ」「探しに行かないんですか?」オルヴァンが聞く。「見えないのに動いたら、もっと分からなくなるから」エッダは当たり前のように言った。「山じゃ、歩けることより止まれる方が大事な時もあるよ」アデマールが感心したように頷く。「なるほど」ニルスがアデマールの大太刀を見上げていた。「それ、重い?」「重いよ」「持てる?」「俺はな」ニルスの目が輝く。エッダが弟の肩を引いた。「触っちゃ駄目」「分かってるよ」アデマールは笑った。「見るだけならいいぞ」二人はしばらく、羊の群れが丘を登っていくのを眺めていた。****昼には湖まで歩いた。水辺には平たい岩があり、二人はそこへ座った。町で買った山羊チーズ。固いパン。干した肉。小さな瓶の白葡萄酒。風は涼しい。湖面には細かな光が揺れている。アデマールがチーズを切る。大きい方をオルヴァンへ渡した。オルヴァンが見る。「また大きい方ですね」「気のせい」「この前も言っていましたよ」「今日はいっぱい歩いたから」「アデもです」それでも受け取った。アデマールが葡萄酒を注ぐ。二人で杯を合わせる。「高原に」「高原に」飲む。軽い酸味。あとから果実の甘さが残った。オルヴァンが湖を見る。「ここ、好きです」「じゃあ一番?」「まだ決めません」「ほんと厳しいな」「アデは?」「変わってない」「まだ僕なんですか?」「まだって何だよ」アデマールがオルヴァンの手を取った。指を絡める。「朝からずっと一番」オルヴァンが少し笑う。「夜まで内緒にするんじゃなかったんですか」「俺はもう言ってる」「ずるいですね」オルヴァンはそのまま肩へ頭を預けた。しばらく二人で湖を見る。風が少し強くなる。アデマールがオルヴァンの頬へ軽く口づけた。「今ので順位上がった?」「候補には入れておきます」「候補なんだ」オルヴァンが笑った。****午後。町へ戻る途中で、再びエッダとニルスに会った。羊たちは丘の上で草を食べている。ニルスが手を振った。「大きい剣の人!」「その呼び方か」アデマールも手を上げる。オルヴァンが空を見る。朝は青かった山側に、白いものが流れ始めていた。雲ではない。低い。地面を這うように広がってくる。エッダもすぐ気づいた。「霧が来る」ニルスが羊を見る。「もう戻す?」「うん」エッダは慌てなかった。群れの先頭へいる羊の鈴を鳴らす。からん。乾いた音が高原へ響いた。羊たちが顔を上げた。「こっち」エッダがゆっくり歩く。走らない。ニルスも群れの後ろへ回った。アデマールとオルヴァンは少し離れてついていく。霧は思ったより早かった。あっという間に湖が消える。町も見えなくなる。視界が白く狭まった。それでも鈴は聞こえる。からん。少し進む。また、からん。エッダは何度も足元を確かめていた。「この先に石囲いがある。そこで待つよ」アデマールが周囲を見る。「手伝うことある?」「今は一緒に歩いてくれればいい」「分かった」エッダの返事は迷いがなかった。道が少し細くなる。その先に、古い石段があった。一段。二段。三段目の端が崩れている。エッダが先に止まった。「ニルス、待って」しかしニルスはちょうど一歩下がろうとして、濡れた石へ足を滑らせた。「わっ」転ぶ前にアデマールが腕を取る。ニルスは尻餅をついただけだった。だが顔をしかめた。「足……」オルヴァンがすぐしゃがむ。「捻りましたか?」ニルスが頷く。「少し」オルヴァンは靴の上から足首へ触れる。腫れはまだほとんどない。「軽いですね。少しだけ治します」淡い光が足首を包む。ニルスが目を丸くした。「痛くない」「今日はもう歩かない方がいいです」「でも羊――」「羊は私が見る」エッダが即答する。オルヴァンも頷いた。「それがいいですね」アデマールは崩れた石段を見る。ここを羊が通るには、少し幅が足りない。「エッダ。この段だけ広げていい?」「できるの?」「少しなら」エッダが石段の端を杖で示す。「こっちは崩れやすい。広げるなら山側」「了解」アデマールが地面へ手を向ける。土と小石がゆっくり動く。大きく道を造り直さない。崩れた段の山側だけが少し盛り上がり、羊一頭分の幅が増えた。エッダが杖で踏む。何度か確かめる。「これなら通れる」「よし」羊たちが一頭ずつ進む。鈴が霧の中で鳴る。アデマールはニルスの前へしゃがんだ。「乗る?」「歩けるよ」「オルが歩くなって」ニルスがオルヴァンを見る。オルヴァンは笑顔で首を横に振った。「今日は駄目です」ニルスは諦めた。「……じゃあ乗る」アデマールが抱き上げる。「背中じゃないの?」「こっちの方が早い」「重い?」「全然」ニルスが少し嬉しそうにした。オルヴァンはその横を歩く。霧の中。エッダの鈴。羊の足音。アデマールに抱えられたニルス。そのまま一行は石囲いまで進んだ。****石囲いは低い壁で三方を囲った小さな避難場所だった。羊たちが中へ入る。エッダが数を数える。「全部いる」それでようやく、肩の力を抜いた。アデマールがニルスを座らせる。「足どう?」ニルスが動かしてみる。「もう痛くない」オルヴァンが言う。「治したところは無理をするとまた痛めます。今日はそのままで」「はい」今度は素直だった。霧の中から別の鈴が聞こえた。遠い。からん。少し間を置いて、また鳴る。エッダも自分の鈴を鳴らした。からん。返事のように、向こうでも鳴る。アデマールが聞く。「知り合い?」「たぶん西の群れ。あっちも止まってる」誰も探しに行かない。声も張り上げない。それぞれが知っている場所で、鈴だけを鳴らす。オルヴァンが霧の向こうを見た。何も見えない。それでも音はある。「いい音ですね」エッダが少し笑う。「見えなくても、いるって分かるから」しばらく待つ。やがて白い霧が少しずつ薄くなった。最初に石壁の外が見える。次に羊。その向こうの草。さらに遠くの丘。エッダが立ち上がった。「もう大丈夫」アデマールも立つ。「ニルスは俺が運ぶ」「歩けるって」「駄目」オルヴァンとエッダの声が重なった。ニルスが黙った。アデマールが笑う。「二対一だな」再び抱き上げる。町へ戻る頃には、霧はほとんど消えていた。****夕食は、エッダたちの家族が使う小さな食堂へ呼ばれた。羊肉の煮込み。焼いた芋。山羊チーズ。昼とは別の白葡萄酒。ニルスは足を椅子へ乗せている。もう痛みはないらしい。エッダの父親がアデマールへ杯を差し出した。「道まで直してもらって悪かったな」「ちょっと広げただけ」「十分だ」オルヴァンには母親が追加の煮込みをよそった。「ニルスの足もありがとう」「軽い捻挫でしたから」二人とも大げさに受け取らない。食事が終わる頃には、ニルスはアデマールの大太刀がどれだけ重いかという話へ戻っていた。エッダも笑っている。町の外では、羊の鈴がときどき鳴った。****宿へ戻る。扉を閉める。外套を脱ぐ。アデマールが寝台へ腰を下ろした。「じゃあ」オルヴァンが振り返る。「何です?」「今日の一番」「ああ」オルヴァンも思い出した。アデマールが即答する。「オル」「やっぱり」「朝から変わらなかった」「湖も?」「オル」「花も?」「オル」「チーズは?」一瞬だけアデマールが黙る。オルヴァンが笑った。「今、迷いましたね」「食べ物を混ぜるのはずるい」「では僕も言います」アデマールが身を乗り出した。「何?」オルヴァンは少し考えるように目を伏せた。けれど答えはもう決まっていた。「ニルスを抱いて歩いていたアデです」アデマールが瞬く。「そこ?」「はい」「湖じゃなくて?」「アデでした」「何で?」オルヴァンが笑う。「ニルスが安心した顔をしていたから」少し間を置く。「それに、格好よかったです」アデマールの顔がゆっくり緩んだ。「もう一回言って」「嫌です」「何でだよ」「もう言いました」アデマールが立ち上がる。オルヴァンの腰を抱く。「じゃあ俺が言う」「何をです?」「今日のオルも格好よかった」「僕は足を治しただけですよ」「霧の中でも全然慌てなかったし」「エッダがいましたから」「それでも」アデマールが頬へ触れる。「好き」オルヴァンの目元が緩む。「僕もです」軽く唇が触れる。離れる。もう一度。今度は少し長い。昼の湖畔より近い。オルヴァンの腕が首へ回った。アデマールも背中を抱く。霧の中でニルスが足を捻った時。崩れた道。白く閉ざされた視界。大きな出来事ではなかった。それでも、相手がすぐ隣にいるのを何度も確かめた一日だった。唇が離れる。オルヴァンはアデマールの胸へ額をつけた。「アデ」「うん?」「今日は甘えたいです」アデマールの腕が少し強くなる。「いいよ」「いっぱい抱いてください」返事の代わりに、また唇が重なった。オルヴァンも自分から身体を寄せる。手が黒い服を掴む。アデマールの指が白い髪を梳き、頬から首へ触れる。「オル」「はい」「今日、一番どころじゃなかった」「何ですか、それ」「全部好きだった」オルヴァンが笑った。その笑みごと、アデマールがもう一度口づける。服が少しずつ緩む。互いの熱が近づく。オルヴァンは離れず、そのままアデマールへ身を預けた。二人はゆっくりと身体を重ねた。****夜更け。オルヴァンはアデマールの腕の中にいた。髪を撫でられながら、目を閉じている。アデマールが聞く。「明日も一番決める?」オルヴァンは少し考えた。「やめておきます」「何で?」「アデが最初から答えを決めているので、遊びになりません」「オルだよ」「ほら」アデマールが笑う。オルヴァンも笑った。「でも、今日は楽しかったです」「俺も」「霧まで?」「霧は別」「僕もです」アデマールが髪へ口づける。オルヴァンはさらに少しだけ胸へ寄った。外では、遠くから羊の鈴が一度鳴った。からん。オルヴァンが目を開ける。「聞こえました?」「うん」二人は少しだけ耳を澄ませた。もう一度鳴る。今度は遠い。それから静かになった。アデマールが毛布を引き上げる。オルヴァンも目を閉じる。今夜はもう、見えなくてもどこにいるか分かっていた。