第40話 今日は遠回り
第40話 今日は遠回り
町の外れの貸馬屋には、朝から何頭もの馬が並んでいた。草原の街道を走る旅人が多いらしく、鞍や手綱もきれいに手入れされている。アデマールは柵の向こうを覗いた。「どれ借りる?」「お店の人に選んでもらいましょう」若い店員が二人を見た。「乗馬経験は?」「ある」「僕もあります」「どのくらい?」「昔ちょっと」アデマールが答える。オルヴァンも少し考えた。「僕も、それくらいです」店員は二人を見比べた。「……その『ちょっと』、信用していいですか?」「たぶん」「僕たちの基準なので、あまり信用しない方がいいかもしれません」店員が苦笑する。「分かりました。じゃあ、こっちを」選ばれたのは、黒に近い栗毛と、白い斑のある灰毛だった。アデマールが栗毛の首筋へ手を置く。「俺こっち」「では僕はこちらで」鞍をつけてもらう。アデマールは腹帯を確かめ、鐙を自分の脚へ合わせた。隣ではオルヴァンも自然に手綱を取っている。店員がまた二人を見る。「……やっぱり、かなり乗れますよね?」「昔ちょっと」「さっき聞きました」アデマールが笑う。店員は草原の方を指した。「風車の丘までなら半日です。その先にも道はありますけど、かなり遠回りになります。夕方までには戻ってきてください」「分かった」「行ってきます」二人は馬へ乗った。栗毛が静かに歩き出す。灰毛もその横へ並ぶ。店員の声が背中から飛んできた。「絶対『ちょっと』じゃない!」アデマールが振り返って手を振った。****町を抜けると、視界が一気に開けた。広い麦畑。低い石垣。遠くに風車。その先には緩やかな丘が何重にも続いている。最初は歩かせた。栗毛の調子を見る。灰毛も落ち着いている。「オル、平気?」「平気ですよ」「久しぶり?」「少し。でも身体は覚えています」アデマールが笑った。「走る?」「いいですよ」二頭が同時に速度を上げる。蹄が乾いた道を叩いた。風が頬へ当たる。アデマールの黒い髪が後ろへ流れる。オルヴァンの白い髪も大きく揺れた。少しずつ速くなる。競争すると決めたわけではない。それでもアデマールが前へ出れば、オルヴァンも自然に追う。オルヴァンが横へ並べば、アデマールも笑って速度を上げる。「オル!」「何です?」「楽しい!」「僕もです!」声が風へ流れた。丘を一つ越える。また一つ。やがて街道から分かれる細い道が見えた。道標には、小さな泉の印が刻まれている。アデマールが手綱を少し引いた。「泉だって」「行ってみます?」「行こう」二頭の馬が細道へ入った。****草原の奥に、その泉はあった。低い林に囲まれた小さな窪地。澄んだ水が岩の間から湧き、浅い池を作っている。底まで見える。水辺には淡い色の花が咲き、木陰には柔らかい草が広がっていた。アデマールが馬から降りる。「すげえきれい」「思ったより大きいですね」二人は馬を木陰へつなぎ、水を飲ませた。自分たちも泉のそばへ座る。昼食は町で買った丸パンと燻製肉、白いチーズ。アデマールがパンを割る。「腹減った」「かなり走りましたからね」二人で食べる。今日は風も穏やかだった。木の葉の音。泉から流れ出す細い水音。遠くで鳥が鳴いている。食べ終わる頃には、二人とも少し汗をかいていた。アデマールが首元を引っ張る。「暑いな」「走りましたから」立ち上がり、泉の縁へしゃがむ。両手で水をすくった。「冷たっ」顔を洗う。もう一度。首筋にも水をつける。濡れた黒い髪を無造作にかき上げた。オルヴァンはそれを見ていた。アデマールが顔を上げる。水滴が頬を伝っている。陽の光が濡れた肌へ当たった。オルヴァンは何も言わなかった。アデマールが首を傾げる。「オル?」「はい?」「何?」「何でもありません」オルヴァンは視線を泉へ戻した。少しして、また見る。アデマールは今度は腕まで水で冷やしている。シャツの襟元も少し濡れていた。オルヴァンはまた目を逸らした。「暑いならオルも洗えば?」「そうですね」泉へ寄る。水をすくう。顔を洗う。冷たい。気持ちはいい。でも、目の前にいる夫の方が気になる。顔を上げる。アデマールと目が合った。「……何です?」「いや」アデマールが笑っている。オルヴァンの眉が少し寄る。「何ですか、その顔」「別に」「笑っています」「オルが分かりやすいから」オルヴァンが黙った。「何がです?」「俺の顔、さっきから見てる」「見てません」「見てる」「見てません」「今も見てる」オルヴァンが顔を逸らす。耳が少し赤い。アデマールが近づいた。「オル」「何ですか」返事は少しだけ尖っている。けれど逃げない。アデマールはその顔を見た。オルヴァンも結局、またアデマールを見る。視線がぶつかった。アデマールの笑みが少し変わった。一歩近づく。オルヴァンの呼吸がわずかに浅くなる。「ここでいいか?」短い言葉だった。何のことか聞き返す必要はなかった。オルヴァンは一瞬だけ目を伏せた。それから小さく言う。「……聞かなくても分かってるくせに」アデマールの手が腰へ回った。オルヴァンもほとんど同時に首へ腕を回す。唇が重なる。一度。すぐにもう一度。さっきまで少し拗ねていたオルヴァンの指が、黒いシャツの襟を掴んだ。引き寄せる。アデマールが嬉しそうに笑う。「やっぱり」「言わないでください」言いながら、オルヴァンの方から口づけた。アデマールの腕が強くなる。木陰へ少し移る。草が柔らかい。泉はすぐそばで光っている。アデマールが頬へ触れる。オルヴァンはその手へ顔を寄せた。「アデ」「ん?」「……格好よかったです」アデマールの目が細くなる。「さっき?」「はい」「だから見てた?」「もう言いません」オルヴァンが唇を塞ぐ。アデマールは笑いながら抱き返した。白い服の留め具へ指が触れる。オルヴァンも黒いシャツを緩める。肩へ口づけ。首筋へ。オルヴァンの脚が絡む。アデマールが身体を抱き寄せる。「オル」「はい」「かわいい」「今は言わないでください」「何で」「余計、欲しくなるので」アデマールが一瞬止まった。次の瞬間には、言葉より先にオルヴァンを強く抱いていた。オルヴァンも嬉しそうに目を細め、首へ腕を回す。二人の身体が草の上へ沈んだ。****風が少し涼しくなっていた。オルヴァンは草の上でアデマールの肩へ頬を寄せていた。白い髪が少し乱れている。アデマールも仰向けのまま、片腕でオルヴァンを抱いている。しばらく誰も喋らなかった。泉の水音だけが聞こえる。アデマールが髪へ触れる。「オル」「はい?」「ここ、よかったな」オルヴァンが顔を上げた。「泉が?」「全部」オルヴァンの頬が少し赤くなる。「……そうですね」アデマールが笑う。「まだ恥ずかしい?」「少し」「誰もいないし」「そうですけど」その時、草むらが揺れた。二人とも見る。小さな茶色い耳が出ている。しばらくして、一匹の野兎が顔を出した。じっと二人を見ていた。沈黙。アデマールが目を細める。「……いたな」「いましたね」野兎は逃げない。むしろ少し首を傾げた。オルヴァンが自分の服を胸元へ引き寄せた。「いつからいたんでしょう」「さあ」「全部見ていたとか」「兎だぞ」「そういう問題じゃありません」野兎が鼻を動かす。アデマールが声をかける。「もう終わったから」オルヴァンが即座に横を見る。「話しかけないでください!」アデマールが吹き出した。「だって見てるし」「余計恥ずかしくなります」オルヴァンも耐えきれず笑った。それでも野兎はまだいる。オルヴァンが自分のシャツを拾った。「……服、着ましょうか」「うん」二人で身体を起こす。服を整える。アデマールがオルヴァンの背中側の留め具を直す。オルヴァンもアデマールの襟を整えた。「髪、変じゃない?」「少し」「直して」「はい」オルヴァンが黒い髪を手櫛で整える。今度はアデマールがオルヴァンの白い髪を直した。その間も、野兎は見ていた。アデマールが言う。「まだいる」「見ないでください」「俺が?」「兎をです」アデマールがまた笑った。****馬のところへ戻る。二頭とも木陰で大人しく待っていた。オルヴァンが灰毛の首を撫でる。「お待たせしました」アデマールが栗毛の鞍を確かめる。「帰る?」「はい」少しして、オルヴァンが泉の方を見る。野兎の姿はもうなかった。「いなくなりました」「帰ったんじゃない?」「どこへ?」「家」オルヴァンが笑う。「僕たちも帰りましょうか」「うん」馬へ乗る。来た道へ戻るところで、アデマールが別の道標を見つけた。町へ戻る道が二つ。近道と、丘をもう一つ回る道。「オル」「はい?」「遠回りする?」オルヴァンは少しだけ考えた。「今日はもう十分遠回りした気がします」「そう?」「でも」灰毛をアデマールの栗毛へ近づける。「嫌だったとは言ってません」アデマールの顔が一気に緩んだ。「じゃあ遠回り」「少しだけですよ」二頭の馬が並んで歩き出した。草原へ夕方の光が伸びている。今度は急がない。二人はゆっくり、町へ戻った。