第43話 ヨリス、住所を覚える
第43話 ヨリス、住所を覚える
朝食を終えた頃、玄関が三回叩かれた。アデマールが扉を開けると、昨日鍵を渡してくれた男と村人が四人立っていた。一人は梯子、一人は板材、一人は工具箱を持ち、最後の老婆は大きな籠を両腕で抱えている。「どうしたの?」「屋根を見るんだろ?」男が当然のように答えた。「昨日、村で話したら集まった」「集まったって」梯子を担いだ男が口を挟む。「俺は自分の納屋を直す予定だったんだぞ」「でも来てくれたんだ」「領館の雨漏りを放っとく方が気になる」老婆は二人の横を通り、さっさと屋敷へ入った。「昼飯は台所でいいかい?」「昼飯まで?」「六人も働くんだろ。食べなきゃ動けないよ」居間からオルヴァンが出てくる。「おはようございます」「おはよう、オルさん。鍋借りるよ」「どうぞ」老婆はもう台所へ向かっている。アデマールがオルヴァンを見る。「始まってるな」「始まりましたね」屋根職人が梯子を壁へ掛けた。「ほら、領主様も来い」「アデでいいよ」「じゃあアデさん、梯子押さえてくれ」「分かった」呼び方が変わるまで、ずいぶん早かった。****雨漏りの原因は、ずれた瓦と、その下で傷んだ板だった。屋根仕事に慣れた村人が上へ登り、アデマールは必要な板や工具を渡す。オルヴァンは二階から雨染みの位置を確認した。「もう少し右です」「こっちか?」「はい。その辺りです」「お、割れてる。ここだな」傷んだ板を外し、新しい板を合わせる。途中からアデマールも屋根へ上がったが、職人の指示に従って板を押さえ、釘や槌を渡すだけだった。「アデさん、そっち持ち上げて」「これ?」「そう。そのまま」「了解」釘を打つ音が続く。アデマールが笑った。「俺、完全に助手だな」「屋根じゃ俺の方が先輩だ」「じゃあ任せる」職人も笑った。昼前には、昨夜水が落ちた場所の修理が終わった。梯子を降りると、台所から肉と豆の煮込みの匂いが流れてくる。アデマールが鼻を動かした。「腹減った」「その前に水路だ」板を片づけていた男が言う。アデマールが振り返る。「水路?」「ああ。午後にやる予定だった」オルヴァンも初耳らしく近づいてきた。「何かあったんですか?」男が庭先の卓へ座る。「畑へ水を分けてる木板が割れかけてるんだ。上の畑へ流れすぎて、下の方が足りなくなってきてる」「交換する板は?」「もう作ってある。ただ、水を弱めないと入れ替えられん」オルヴァンがアデマールを見る。アデマールも頷いた。「俺たちも行く」「いいのか?」「領地の水路なんだろ?」老婆が鍋の蓋を開けた。「行くなら、まず食べな。腹を空かせて水へ入るんじゃないよ」誰も逆らわなかった。****共有水路は、屋敷から村を抜け、さらに丘を少し下ったところにあった。高い方から流れてきた水が石積みの水路を通り、二つに分かれている。分岐に差し込まれた木板は下端が割れ、水が片側へ多く抜けていた。すでに村人が十人ほど集まっている。若者たちは新しい板を運び、別の者たちは土嚢を作っていた。畑帰りらしい女性は、長靴のまま水路へ入っている。「領主様まで来たの?」女性が声を上げた。アデマールが袖を捲る。「アデでいいよ」「じゃあアデさん、そこの袋持ってきて」「はい」横でオルヴァンが笑った。「馴染むのが早いですね」「オルさんも笑ってないで、その縄取って」「はい」二人ともすぐ作業へ組み込まれた。木板を交換するには、本流を一時的に弱める必要がある。上流へ土嚢を積み、横へ掘った仮水路へ水を逃がす。村の男が場所を示す。「ここから三つ並べる。次は斜めだ」「分かった」アデマールが土嚢を置き、隣で村人も続ける。オルヴァンは仮水路の入口へしゃがんだ。「もう少しこちらを広げると流れやすそうです」「そこは石が多いぞ」「この辺りなら土が柔らかいです」鍬を入れる。周囲の村人も掘る。水が新しい溝へ入り始めた。「流れた!」本流の水位は下がったが、新しい板を入れるにはまだ勢いが強い。職人が板を抱えたまま首を振った。「このまま差したら持っていかれるな」オルヴァンが水路を見た。「十数える間くらいなら、こちらへ寄せられます」「それだけあれば入る」職人が板を構える。オルヴァンが片腕を水へ向けた。流れがふくらみ、仮水路側へ大きく寄る。本流が一気に浅くなった。「今!」職人と若者が板を差し込む。途中で止まった。「右下が引っかかる!」アデマールが水へ降りた。「どこ?」「板の角だ!」アデマールは板を支えたまま、石枠を見る。一部が内側へずれている。「ここか」「昨日の雨だな」村の石工が金槌とタガネを持って水へ入ってきた。「アデさん、そのまま押さえてろ。俺が削る」「任せた」石工がタガネを入れる。一度。二度。三度。オルヴァンが水流を寄せ続けている。「あと少しだ!」石工が最後に強く打った。「よし、入れろ!」板が落ちる。溝へぴたりと収まった。「離します!」オルヴァンが魔法を解く。水が戻り、新しい分け板へ当たった。二本の水路へ流れが分かれる。村人たちがそれぞれ先へ走った。「下へ来たぞ!」「こっちも大丈夫だ!」声が上がる。アデマールは水路から出た。膝まで濡れている。石工が隣で息を吐いた。「さすが勇者様だ。あの板を一人で押さえるか」「俺、押さえてただけだぞ」「普通は三人いる」「じゃあ役に立った」「十分すぎる」石工が笑った。オルヴァンも水路から離れる。畑の女性が布を差し出した。「オルさんも。助かったよ」「皆さんが板も仮水路も準備していたからです」「それでも、あの流れを一度寄せてもらえたから入ったんだよ」布を押しつけられる。オルヴァンは笑って受け取った。「ありがとうございます」新しい板の周りへ泥を詰め、仮水路も整える。作業はまだ続く。アデマールが鍬を持つ男へ聞いた。「次、何する?」「アデさんはここの泥詰めて」「分かった」オルヴァンにも声が飛ぶ。「オルさん、こっちの石並べるの手伝ってくれ」「はい」二人はまた村人の中へ入った。****夕方には、水路の周りがきれいに整った。下の畑にも細い水が流れる。村人たちは鍬や籠を持ち、少しずつ帰り始めた。一人の老人がアデマールへ声を掛ける。「領主様が泥だらけになるとは思わんかった」アデマールは自分の裾を見る。「俺も朝は思ってなかった」「嫌じゃなかったか?」「全然。楽しかった」オルヴァンも隣へ来る。「僕もです」老人は二人を眺めた。「変わった領主夫夫だな」「アデでいいって」「まだ慣れん」「そのうち?」「そのうちだ」老人は笑って帰っていった。水路の脇には、昼に残ったパンが置いてある。アデマールが一つ取って半分に割り、オルヴァンへ渡した。「腹減った」「かなり働きましたね」二人で石積みへ腰掛ける。遠くでは、畑の人たちが新しい水の流れを確かめていた。アデマールがその様子を見る。「俺、自分の領地って、ずっと書類の中にある感じだった」「僕も似たようなものでした」オルヴァンがパンを一口食べる。「でも、ここで暮らしている人がいるんですね」「うん」「屋根を直しに来てくれた人も、水路を直した人も、あの水を待っていた畑の人も」アデマールは畑を眺めたまま笑った。「うん」二人は残りのパンを食べてから、屋敷へ戻った。****門の前に、見覚えのある荷車が止まっていた。荷台には布、木箱、瓶、籠。横で男が腰へ片腕を当てている。アデマールが声を上げた。「ヨリス?」ヨリスが振り返る。「遅い!」「何でいるの?」「隣町で仕入れしてたんだよ。この街道通るついでに村へ寄ったら、お前らがいるって聞いた」オルヴァンが近づく。「もう村で知られているんですね」「そりゃ領主夫夫が朝から屋根に上がって、午後は水路に入ってりゃ広まるだろ」ヨリスは二人の姿を見る。泥のついた服。濡れた裾。「本当に水路入ったのか」「入った」「僕も少し」ヨリスは呆れたように笑う。「どこへ行ってもやること変わらんな」荷台を叩く。「ちょうど生活用品も積んでる。屋敷使うなら買うものあるだろ?」「来てすぐ商売?」「商人だからな」オルヴァンが荷台を覗く。「鍋がありますね」「布もあるぞ。寝具も」「見せてください」ヨリスが得意そうに笑った。「毎度あり」「まだ買ってませんよ」「買う顔してる」アデマールがヨリスを見る。「俺たち今、泥だらけだけど」「それは見れば分かる」****屋敷の居間へ商品が並んだ。厚い敷布。新しい枕。木の皿。深鍋。保存用の瓶。丈夫な布。香辛料。小さな卓上灯。アデマールが敷布へ触れる。「これいいな」「今の毛布だけより眠りやすそうですね」ヨリスが値段を言う。アデマールはすぐ頷く。「買う」「ちゃんと聞いたか?」「聞いた」「結構するぞ」「毎日使うだろ」ヨリスがオルヴァンを見る。「止めないの?」「寝具は大事です」「珍しく即決だな」次に窓掛けを見る。アデマールが白い布を持ち上げた。「これ、寝室にいい」「白ですか?」「オルに合う」ヨリスが言う。「寝室を白くしたら、お前だけ浮くぞ」「俺はオルの横にいるからいい」「聞いた俺が悪かった」オルヴァンが笑った。買うものが決まる。ヨリスは帳面を開き、一つずつ書き留めた。やがてペン先が止まる。「届け先、ここでいいんだな?」アデマールとオルヴァンの動きも止まった。ヨリスは帳面を見たまま続ける。「次にこの辺へ来た時も、荷物はここへ持ってくる。違うなら今言ってくれ」アデマールがオルヴァンを見る。オルヴァンもアデマールを見る。朝は村人たちと屋根を直した。昼は同じ鍋を囲んだ。午後は水路で泥だらけになった。戻ってきたら、今度は昔から知っている商人が門の前にいた。オルヴァンの口元が緩んだ。「はい。ここでお願いします」アデマールも頷く。「ここで」ヨリスは特別な反応をせず、帳面へ書いた。「分かった」紙の上をペンが走る。アデマールが覗き込む。「何て書いた?」「届け先」「見せて」「商売の帳面だぞ」「俺たちの住所だろ?」「そうだよ」アデマールが嬉しそうに笑った。オルヴァンも隣で笑っている。ヨリスが二人を見る。「そんなに嬉しいのか?」「うん」「はい」答えが重なった。ヨリスは肩をすくめた。「じゃあ、なくすなよ。その家」****夕食は三人になった。ヨリスが持ってきた香辛料を煮込みへ少し入れる。昼にもらった野菜。村で買った肉。残っていた豆。卓には新しく買った皿が三枚並んだ。アデマールが皿を見る。「これいいな」「俺が売ったからな」「分かってる」「じゃあもっと買え」ヨリスが酒を飲む。「客が来た時どうするんだ?」「もう少し増やしてもいいですね」オルヴァンが答える。アデマールも頷く。「じゃああと二枚」「五枚くらい買えよ」「急に増えたな」外から声がした。「アデさーん!」アデマールが窓を見る。「誰だ?」玄関を開けると、水路で一緒だった女性が籠を持って立っていた。「下の畑まで水が来たから、これ」中には採れたばかりの青菜と豆が入っている。「こんなにもらっていいの?」「明日も採れるよ」「ありがとう」女性が屋敷の中を覗く。ヨリスと目が合った。「お客?」「友達」「三人ならそれだけじゃ足りないだろ。ちょっと待ってな」「何を?」「夕飯」女性は返事を待たずに帰っていった。アデマールが戸口から振り返る。「増えるって」「何がです?」「夕飯」ヨリスが笑った。「お前ら、もう村に囲われてるな」少しすると、本当に料理が届いた。焼いた芋。豆の煮物。山羊乳のチーズ。誰が聞いたのか、三軒から来た。卓の上へ置き切れない。アデマールが嬉しそうに見る。「明日の朝も食える」「昼までありますよ」「いいじゃん」ヨリスが焼いた芋を食べる。「うまい」オルヴァンが笑った。「でしょう?」ヨリスが横を見る。「なんでお前が得意そうなんだ」オルヴァンは答えかけて、少しだけ間を置いた。「この村の料理ですから」自分で言った言葉が意外だったらしい。オルヴァンが一度瞬く。アデマールが隣を見る。二人の視線が合った。何も言わず、同じように笑った。****ヨリスは空いている部屋へ泊まることになった。「客を泊めるつもりなら寝具を揃えろよ」と言いながら、自分で売った敷布を抱えて入っていった。居間には新しい卓上灯。台所には深鍋。壁際には村から届いた野菜。窓には仮留めした布。昨日までより、この屋敷で使うものが増えていた。二人は寝室へ入る。新しい敷布を寝台へ広げた。オルヴァンが端を引く。「こちらをもう少し」「このくらい?」「はい」二人で整える。アデマールが寝台へ腰掛け、軽く弾ませる。「いいな」「寝てみます?」「一緒に」オルヴァンも隣へ座り、二人でそのまま後ろへ倒れた。しばらく天井を見る。アデマールが笑う。「今日、ずっと誰かいたな」「朝から賑やかでしたね」「楽しかった?」「はい」オルヴァンが横を向く。「屋根も、水路も」「俺も」「ヨリスが来たのも」「うん」「夕食が増えたのも」「うん」アデマールも横を向いた。「オル」「はい?」「ここで、って言ったな」オルヴァンの口元が緩む。「アデも言いましたよ」「言った」アデマールが腰へ腕を回し、オルヴァンを近くへ引き寄せる。唇が重なる。離れる。次はオルヴァンから口づけた。アデマールの掌が背中をゆっくり撫でる。「今日、したい」「僕もです」オルヴァンは自分から黒いシャツの留め具へ指を掛けた。アデマールも白い服を緩める。肌へ触れる。指を絡める。オルヴァンの脚がアデマールへ絡んだ。「アデ」「ん?」「せっかく敷いたばかりなのに、また直すことになりますよ」「二人で直せばいい」オルヴァンが笑う。「そうですね」二人の身体が重なった。****夜更け。新しい敷布は、最初より少しずれていた。オルヴァンは毛布に包まり、アデマールの胸の中へ収まっている。アデマールが白い髪を指で整えた。「寝心地どう?」「いいです」「買ってよかった」「はい」オルヴァンが少し顎を上げる。アデマールが頬へ口づけた。窓の外には、少し離れた村の灯りがいくつか残っている。アデマールがそちらを見る。「明日、水路見に行こうかな」「気になります?」「ちゃんと流れてるか見たい」「僕も行きます」「そのあと屋根の残り」「庭も少し進めたいです」アデマールが笑う。「忙しいな」「楽しいでしょう?」「うん」オルヴァンがまた胸へ頬を寄せた。卓の上には、ヨリスが置いていった売買票がある。届け先には、この屋敷の名が書かれていた。これから荷物が来れば、ここへ届く。二人は同じ毛布の中で、村の灯りが消えていくのを少しだけ眺めてから眠った。