第45話 勇者が泊まりに来た
第45話 勇者が泊まりに来た
玄関を叩く音がした時、アデマールは台所にいた。腰には布を巻き、片手には木匙。鍋では肉と豆が煮えている。オルヴァンは隣でパンを切っていた。「誰でしょう」「出る」アデマールは木匙を置き、そのまま玄関へ向かった。扉を開ける。旅装の青年が立っていた。「こんにちは、アデマールさん」リュシアンだった。背には剣。肩には旅行鞄。その表情が、アデマールを見た瞬間に少し止まった。「……何?」「いえ」リュシアンの視線が腰の布へ下がる。「料理してた」「そうみたいですね」「入る?」「お邪魔します」アデマールが道を空ける。リュシアンが玄関をくぐったところで、オルヴァンが台所から顔を出した。「リュシアン。いらっしゃい」「オルヴァンさん、お久しぶりです」リュシアンの表情がようやく緩む。「本当に家ができたんですね」「できました」アデマールが答える。オルヴァンが少し笑った。「まだ直しているところもありますけどね」「泊まっていいって手紙にあったので、遠慮なく来ました」「もちろん」アデマールがすぐ奥を指す。「客間あるぞ」「本当にあるんですか?」「何だと思って来たんだよ」「床に毛布かなって」「最初は俺たちもそれだった」三人で笑った。****客間には、新しい寝具が入っていた。小さな卓。椅子。窓掛け。壁際には荷物を置ける棚もある。リュシアンが部屋の中を見回した。「ちゃんと客間だ」「だから言っただろ」アデマールが得意そうに言う。オルヴァンが寝台の端を整える。「最初のお客さんですよ」「僕が?」「はい」リュシアンが急に姿勢を正した。「それ、ちょっと緊張します」「寝るだけだぞ」「アデはそういうこと言わないでください」オルヴァンが笑う。リュシアンは旅行鞄を棚へ置いた。その時、外から声がした。「アデさーん!」アデマールが窓を見る。「また呼ばれてる」「人気ですね」リュシアンが言う。「見てくる」三人で玄関へ向かった。門の前には、村の若い男が立っていた。肩に縄を掛け、手には短い木杭を数本抱えている。「お客さん来てるところ悪いんだけど、北の畑の柵、手が空いたら手伝ってもらえないか?」アデマールが木杭を見る。「壊れた?」「昨夜の風で十本くらい倒れた。収穫前だから今日のうちに立て直したいんだ」「行く」返事が早かった。男がリュシアンを見る。「そっちは?」「友達」アデマールが答える。リュシアンが一瞬だけ目を丸くする。それから笑った。「僕も手伝います」「客なのに?」「泊めてもらうので」村の男は頷いた。「じゃあ人手一人追加だな。昼過ぎに北の畑で」「分かった」男が帰っていく。リュシアンがアデマールを見る。「僕、着いたばかりなんですけど」「嫌?」「行きますよ」「よし」オルヴァンが笑う。「まず昼食にしましょう。お客さんを空腹のまま畑へ連れていくつもりですか?」「忘れてた」「僕は忘れないでください」リュシアンが言う。アデマールが肩を叩いた。「飯いっぱいあるぞ」「それは嬉しいです」****三人で昼食を食べた。アデマールが作っていた煮込み。パン。庭で育ち始めた香草を少し入れた卵料理。リュシアンが煮込みを一口食べる。「おいしい」「だろ?」アデマールが胸を張る。オルヴァンが横を見る。「今日はほとんどアデが作りました」「本当に?」「何で驚くんだよ」「いえ、前に会った時は勇者の話をしていたので」「今日は煮込みの話しようぜ」「ずいぶん変わりましたね」アデマールが少し考える。「そう?」「いい意味で」リュシアンがもう一口食べる。「僕、この方が話しやすいです」アデマールは嬉しそうに笑った。オルヴァンがパンを一つ追加する。「午後は働きますから、食べておいてください」「ありがとうございます」リュシアンは素直に受け取った。****北の畑では、すでに村人たちが柵を外していた。畑の外周に沿って、木杭と横木が続いている。風をまともに受けた場所だけ、何本かが斜めに倒れていた。収穫前の豆畑が、その向こうまで広がっている。年配の女性が三人を見る。「あら、若いのが増えた」リュシアンが頭を下げる。「リュシアンです。今日は泊めてもらいに来ました」女性がアデマールを見る。「お客まで連れてきたの?」「本人がやるって」「働かせすぎるなよ」リュシアンが笑う。「大丈夫です」村人が新しい杭を並べる。「使える横木はそのまま使う。杭だけ替えるぞ」アデマールが一本持つ。「ここ?」「古い穴の少し内側。そこは土が緩んでる」「分かった」リュシアンも隣の杭を取った。二人で位置を決める。村人が大きな木槌を渡す。「順番に打ってくれ」アデマールが最初の杭を立てた。木槌を振る。一度。杭がかなり沈んだ。村人が声を上げる。「待て待て、もう十分だ!」アデマールが止まる。「まだ入るぞ?」「入れすぎたら横木の高さが合わん!」「なるほど」次から力を落とした。隣でリュシアンが笑っている。「何?」「アデマールさんでも注意されるんですね」「俺、ここの柵は初めてだぞ」年配の女性が横から言う。「勇者様でも畑の柵は一年生だ」「だって」リュシアンがさらに笑った。アデマールも笑いながら次の杭を立てる。少し離れた場所では、オルヴァンが横木を縄で固定していた。村の女性が結び方を教える。「一回こっちへ回して、下から抜くんだよ」「こうですか?」「そう。最後はこっち」オルヴァンが締める。「なるほど」次の一本。今度は一人で結ぶ。女性が確かめる。「うん。これなら外れない」「ありがとうございます」「オルさん、覚えるの早いね」「教え方が分かりやすいんです」女性は満足そうに頷いた。英雄三人が揃っているのに、やっていることは杭打ちと縄結びだった。それでも作業はよく進んだ。****半分ほど終わったところで、村の少年が走ってきた。「じいちゃん!」柵の向こうで作業していた老人が振り返る。「どうした?」「向こうの端、土ごと浮いてる!」皆が移動する。畑の北端。倒れた柵の下で、地面が細長く盛り上がっていた。村人が足で踏む。少し沈む。「水だな」老人がしゃがみ込んだ。「昨夜の雨が下へ抜けてない」別の男が首を傾げる。「ここに水溜まることあったか?」「昔は脇へ落ちる細い溝があったはずだ」老人が畑の外を指す。草に埋もれて形が分からなくなっている。「何年も使ってないから塞がったか」アデマールが聞く。「掘る?」「まず出口探す」老人が歩き始める。オルヴァンもついていく。「どの辺りへ出ていました?」「下の雑木の手前だったと思う。俺が子どもの頃は流れてた」皆で草を分ける。リュシアンが少し先で声を上げた。「これじゃないですか?」草の下に、石を並べた細い溝があった。泥と落ち葉で埋まっている。老人が頷く。「それだ」鍬を持ってくる。村人たちが上から泥を出し始めた。リュシアンもすぐ混ざる。アデマールがオルヴァンを見る。「俺たちもやる?」「もちろんです」二人も鍬を取った。少しずつ古い溝が現れる。途中で大きな根が横切っていた。村人が言う。「これが詰まらせたな」リュシアンが剣へ手を伸ばしかける。老人が止める。「切るな。その木、畑の風除けだ」リュシアンの手が離れる。「すみません」「根の下を通せばいい」老人が鍬を入れる。アデマールも横から土を出す。オルヴァンは上流側へ戻り、溜まった水の様子を見る。「あと少し低くすれば流れそうです」皆が掘る。やがて泥水が細く動いた。「来た!」少年が叫ぶ。水が古い溝へ入り、根の下を抜ける。最初は濁っていた流れが、少しずつ速くなった。畑際の盛り上がった土もゆっくり沈んでいく。村人たちが息を吐く。「これで柵も立てられる」老人がリュシアンを見る。「木まで切られなくて済んだ」「危なかったです」リュシアンが苦笑した。「何でも剣で切ればいいわけじゃないんですね」「畑じゃ特にな」アデマールが横から言う。「俺もさっき杭入れすぎた」「一緒にしないでくださいよ」「似たようなもんだろ」「違います」二人が言い合う。村人たちが笑った。オルヴァンも口元を緩める。「二人とも、次の杭をお願いします」「はい」「はい」今度は返事まで重なった。****夕方には柵が元通りになった。古い排水溝も、流れが分かる程度まで草を刈ってある。村人の一人が新しい杭へ細い印を刻んだ。アデマールが見る。「何それ?」「次に替える時、今日の杭が分かるようにな」「また壊れる?」「柵だぞ。いつかは壊れる」当然のように返される。アデマールが少し笑った。「そっか」「その時また直しゃいい」老人は道具を担いだ。「今日は助かったよ、領主様。若い勇者さんもな」リュシアンが頭を下げる。「こちらこそ、勉強になりました」アデマールが老人を見る。「俺はアデでいいって」「俺はまだ領主様でいく」「頑固だな」「年寄りはそういうもんだ」老人が笑う。少年がオルヴァンへ近づいた。「オルさん、明日もいる?」「いますよ」「じゃあ朝、母ちゃんが焼いたパン持ってくる」「そんなにいただいていいんですか?」「今日手伝ってくれたから」「では、楽しみにしています」少年は満足そうに走っていった。リュシアンがその背中を見る。「ずいぶん馴染んでますね」アデマールが答える。「そう?」「名前で呼ばれてるじゃないですか」オルヴァンが笑う。「アデは呼び方を変えてもらうのに一生懸命ですから」「領主様って落ち着かない」「勇者様は平気なのに?」「それは昔から呼ばれてたし」リュシアンが少し笑った。「でも、似合ってますよ」「何が?」「ここにいるの」アデマールはすぐには返さなかった。オルヴァンも畑の向こうを見る。夕方の光の中で、村人たちが道具を持って帰っていく。柵の向こうには豆畑。そのさらに先に、自分たちの屋敷の屋根が小さく見えていた。「帰ろうか」オルヴァンが言う。アデマールが頷く。「うん」リュシアンも二人の横へ並んだ。三人で屋敷へ向かった。****夕食は三人で作った。リュシアンが野菜を切る。オルヴァンが鍋を見る。アデマールは庭から香草を少し摘んできた。「これくらい?」「十分です」オルヴァンが葉を刻む。リュシアンが庭を見る。「これ、育ててるんですか?」「もらったんです」アデマールが答える。「増えたらもっと料理に使う」「いいですね」リュシアンは少し間を置いた。「本当に普通の家だ」アデマールが振り返る。「何期待してた?」「勇者の剣とか、討伐した魔獣の角とか、いっぱい飾ってあるのかと」オルヴァンが笑う。「ありませんね」「代わりに香草と鍋」「風呂もでかいぞ」「そこは聞きました」「誰に?」「村の子どもです」アデマールが止まる。オルヴァンも止まる。リュシアンが笑う。「かなり有名ですよ。アデさんが大きな風呂を作ったって」アデマールは少し考えた。「いいことじゃん」「何がです?」「村で風呂の話されるの」オルヴァンが肩を揺らした。「アデらしいですね」三人で夕食を食べる。柵の話。道中の話。リュシアンが最近泊まった宿の料理。村の人から聞いた隣町の菓子屋。英雄の心得も、将来の生き方も話さなかった。それでも話題は尽きなかった。****食後、リュシアンを客間へ案内する。寝台には朝から干しておいた寝具。卓には水差し。窓の外には庭が見える。「何か足りないものある?」「十分です」リュシアンが寝台へ腰掛ける。少し弾む。「いい寝台ですね」「ヨリスから買った」「あの商人さん?」「知ってる?」「名前だけ聞いたことあります」アデマールが言う。「今度会ったら布買わされるぞ」「商人ですからね」オルヴァンが笑う。「では、おやすみなさい」「おやすみなさい」二人が部屋を出ようとする。リュシアンが呼び止めた。「アデマールさん。オルヴァンさん」「何?」「泊まりに来てよかったです」二人が振り返る。リュシアンは少し照れたように笑った。「また来てもいいですか?」「当たり前だろ」「いつでもどうぞ」返事がすぐ重なった。リュシアンも笑った。「おやすみなさい」扉を閉める。廊下に二人だけになった。アデマールが小さく言う。「客間、使ってもらえたな」「はい」「また来るって」「嬉しいですね」アデマールがオルヴァンの手を取る。指を絡める。「作ってよかった」「まだ一人目ですけどね」「次も来る」「誰でしょう」「ベルトラン以外」「アデ」オルヴァンは笑いながら肩を寄せた。二人は手をつないだまま寝室へ戻った。****朝。台所ではアデマールが卵を焼き、オルヴァンがパンを切っていた。リュシアンが入ってくる。「おはようございます」「おはよう」「よく眠れました?」「ぐっすりです」玄関が叩かれた。アデマールが振り返る。「来たかな」「何がです?」「パン」扉を開ける。昨日の少年が籠を抱えて立っていた。「オルさんいる?」「俺もいる」「知ってる」少年は遠慮なく中を見る。「オルさーん!」オルヴァンが台所から出てくる。「おはようございます」「母ちゃんから!」焼きたての小さなパンが籠いっぱいに入っていた。「ありがとうございます」少年がリュシアンに気づく。「あ、勇者の兄ちゃんもいる」「おはよう」「今日も柵やる?」「今日はやらないよ」「じゃあ暇?」「たぶん」少年が笑う。「あとで川行こうぜ!」リュシアンがアデマールを見る。「僕、誘われました」「行ってくれば?」「いいんですか?」「客だし」少年がすぐ言う。「アデさんとオルさんも来ればいいじゃん」アデマールがオルヴァンを見る。オルヴァンはパンの籠を抱えたまま笑った。「朝食のあとなら」「じゃあ決まり!」少年は走って帰っていった。リュシアンが玄関の外を見送る。「予定、決まるの早いですね」「この村、だいたいこうだよ」アデマールが言う。言ってから、少しだけ笑った。三人は台所へ戻った。村から届いたパンを卓へ並べる。今日も朝が始まった。