第48話 帰る場所
第48話 帰る場所
黒い異形が消えた。アデマールは反射的に大太刀を横へ振るった。金属とも骨ともつかない硬い音。刃が何かを受けた。次の瞬間、腕ごと弾かれる。「っ!」身体が横へ流れる。その脇を黒い腕が通り抜けた。オルヴァンが細剣を突き出す。異形は首を傾けただけで避けた。さらに踏み込む。オルヴァンの胸元へ爪が迫る。「オル!」アデマールが間へ入った。大太刀の腹で受ける。今度は二人まとめて押し飛ばされた。着地する前に、シビラの魔法が飛ぶ。幾重もの光輪が異形の四肢を囲んだ。閉じる。一瞬だけ動きが止まる。ベルトランが横から斬り込んだ。「五十倍」剣が黒い肩口へ入る。初めて肉が裂けた。だが浅い。異形の腕が振られる。ベルトランは剣で受けた。轟音。地面を削りながら後退する。「これで浅いのかよ」アデマールが大太刀を構え直した。ベルトランは答えない。黒い異形は四人を順番に見た。さっきまで丘ほどの外殻をまとっていた時とはまるで違う。小さい。速い。そして、強い。シビラが杖を握り直した。「来るわよ」異形の姿がまた消えた。****今度はシビラだった。杖を振るより早く、目の前へ黒い爪が現れる。ベルトランの剣が横から割り込んだ。弾く。その背後からアデマールが大太刀を振り下ろす。異形は半歩ずれた。刃が地面を砕く。オルヴァンの雷撃が足元を走る。異形の片脚が一瞬止まる。「今!」シビラが杖を突き出した。氷の槍が四方から殺到する。異形は腕を交差させた。氷が砕ける。その破片の間へベルトランが入った。斬る。一撃。二撃。三撃。黒い身体へ細い傷が増える。それでも倒れない。尾のように伸びた黒い器官がベルトランの脇腹を狙う。アデマールが切り落とした。「借り一つ」「数えてない」「じゃあ忘れろ」「もう忘れた」二人が左右へ散る。オルヴァンが短く叫ぶ。「上です!」四人が同時に離れた。直後、頭上から黒い塊が落ちる。地面が大きく抉れた。シビラが空を見る。外殻から散った悪魔のマナが集まり、次々と黒い塊へ変わっている。「面倒ね」「消せる?」アデマールが聞く。「数が多すぎるわ。なら――」シビラが杖を掲げた。上空の雲が赤く染まる。ベルトランが横を見る。「またやるのか」「まとめて落とす方が早いわ」魔力が膨れ上がる。「《メテオストーム》」空から炎が降った。巨大な隕石が一つ、二つ、さらに続く。黒い塊を空中で砕き、そのまま盆地へ落ちる。異形が跳んだ。爆炎を避ける。着地点をベルトランが待っていた。「五十倍」剣閃が走る。黒い胸部を深く裂いた。アデマールがその傷へ飛び込む。「《インフィニット・ノヴァ》!」大太刀が入る。亀裂が広がった。胸部が大きく砕ける。「入った!」だが、オルヴァンの表情は変わらなかった。「アデ、離れて!」アデマールが跳ぶ。砕けた胸部の奥から、黒いものが一気に盛り上がった。割れた肉が戻る。傷が塞がる。ベルトランが舌打ちする。「再生するのか」オルヴァンは異形の胸元を見た。一瞬だけ見えた。黒い光。奥深くにある、拳ほどの塊。「中心に何かあります」「壊せばいい?」アデマールが聞く。「おそらく」シビラが言った。「なら露出させるわ」異形がこちらを見る。次の瞬間、四人へ突っ込んできた。****軍勢は押していた。盆地の左右では、人族と獣人族の盾列が魔獣を追い詰めている。斜面ではエルフの弓兵が逃げる飛行種を落とし、ドワーフの重装兵が大型種へ槌を叩き込む。若い勇者たちも前線へ戻っていた。悪魔のマナが薄くなったことで、兵たちは本来の力を取り戻している。けれど中央だけは違った。黒い異形がいる限り、悪魔のマナはまた濃くなる。少しずつ。確実に。倒れた魔獣の一部が再び動き始めた。軍の魔術師が声を張る。「中央からまた来るぞ!」オルヴァンが振り返る。このまま長引けば、また同じことになる。異形の腕が飛んできた。細剣で逸らす。重い。掌が痺れる。アデマールがすぐ横へ入る。二人の位置が入れ替わる。大太刀が横薙ぎに走る。異形が後ろへ跳ぶ。そこへシビラの風刃。さらにベルトラン。四人の攻撃が続く。一瞬も休ませない。それでも異形は捌いた。避ける。受ける。弾く。時には一歩踏み込んで、逆に四人を崩す。ベルトランの頬が裂ける。シビラの袖が破れる。オルヴァンの肩へ黒い爪が掠める。アデマールの額から血が流れた。それでも誰も下がらない。シビラが息を吐く。「嫌になるくらい強いわね」ベルトランが剣を構える。「褒めてる場合か」「事実よ」異形がまた消えた。ベルトランが踏み込む。金属音。今度は止めた。両者の間で剣と爪が押し合う。ベルトランの足元が沈む。アデマールが目を見開いた。五十倍でも押されている。ベルトランが低く息を吐いた。「……百倍」空気が爆ぜた。異形の腕が弾き上がる。次の瞬間、ベルトランの姿が消えた。黒い身体に斬撃が走る。一つ。二つ。十。アデマールにはもう剣そのものが見えなかった。異形が初めて大きく後退した。ベルトランがその懐へさらに入る。剣を振り抜く。片腕が飛んだ。シビラの目が細くなる。「本当に百倍まで上げたのね」ベルトランは答えず、次の一撃へ入った。だが、異形も止まらない。残った腕を振るう。ベルトランが避ける。黒い脚が地面を蹴る。速度が上がる。「百倍についてくるの!?」シビラが杖を振る。爆炎。風。氷。次々と進路を潰す。異形はその隙間を抜ける。ベルトランとぶつかる。剣と爪が一秒の間に何度も衝突した。音だけが遅れて響く。アデマールが笑った。「すげえ」オルヴァンが横を見る。「アデ」「分かってる!」二人も飛び込んだ。****ベルトランが正面から異形を止める。シビラが周囲を焼き払い、逃げ道を狭める。オルヴァンが魔法を放つ。「《ジ・エンド・オブ・エレメンツ》!」悪魔のマナが消えた。今度は戦場全体ではなく、異形の周囲だけ。それでも黒い身体が大きく揺らぐ。胸部の奥に、黒い核が透けて見えた。「アデ!」「見えた!」アデマールが踏み込む。「《インフィニット・ノヴァ》!」大太刀が胸を砕く。黒い核へ刃が届く。その直前。核が脈打った。凄まじい悪魔のマナが噴き出す。オルヴァンの魔法で消えたはずの空間が、一瞬で黒く染まった。衝撃が四人を吹き飛ばした。アデマールが地面を転がる。大太刀が手を離れた。「アデ!」オルヴァンも倒れる。シビラの結界が割れた。ベルトランが片膝をつく。異形の胸は大きく壊れている。核も傷ついている。それでも、まだ動いていた。黒い核から悪魔のマナが溢れる。砕いた身体をまた作り始める。アデマールが息を吐いた。「今ので駄目なのかよ」ベルトランが立ち上がる。「なら、もう一回だ」シビラも杖を拾う。「簡単に言うわね」「他にあるか?」「あるかもしれない」声を出したのはオルヴァンだった。三人が見る。オルヴァンは自分の左手を見ている。白い手袋。その下にあるものを。アデマールが気づいた。自分の右手を見る。「オル」「はい」それだけだった。二人は同時に手袋を外した。****アデマールの右掌。花開くミュレシアと、外へ伸びる光。オルヴァンの左掌。同じ花と、その周りを巡る輪。二つの紋が露わになる。ベルトランが異形へ向き直る。「時間は?」「少し」オルヴァンが答える。シビラが杖を構えた。「なら作るわ」異形が走った。ベルトランが正面へ出る。「百倍」剣と爪がぶつかる。シビラの魔法陣が空いっぱいに広がった。「《メテオストーム》!」燃える岩塊が落ちる。一発目が異形の背後へ。二発目が左。三発目が右。逃げ道を潰す。ベルトランが正面から押し返す。異形の脚が沈む。「今だ!」アデマールとオルヴァンが向かい合った。右手。左手。互いの掌を重ねる。二つの花が重なった。光が弾ける。****一瞬、戦場の色が変わった。白。金。淡い青。二人の掌の間で、二輪だった花が一つに重なる。――双花共鳴。「《ブリリアント・エタニティ》!」アデマールの全身へ力が走った。オルヴァンの魔力が身体の隅々まで澄み渡る。さっきまで異常だと思った力が、さらに大きくなる。なのに苦しくない。暴れない。二人の間で、ぴたりと揃っている。アデマールが笑った。「すげえな」オルヴァンも笑う。「はい」黒い異形がベルトランを弾き飛ばした。そのまま二人へ向かう。シビラが叫ぶ。「来るわよ!」アデマールとオルヴァンは掌を重ねたまま並んだ。アデマールは左手で大太刀を拾う。オルヴァンは右手で細剣を構える。異形が迫る。「オル」「はい」二人が踏み込んだ。黒い爪が来る。アデマールが斬り上げる。オルヴァンの細剣がその下を抜ける。二人の間に光が走った。黒い爪が砕ける。異形がさらに踏み込む。オルヴァンの魔法が胸部へ突き刺さる。黒い肉が開く。核が見えた。今度は悪魔のマナが噴き出さない。白金の光が、黒い流れを押し返している。異形が吠えた。初めて明確に後退した。アデマールが大太刀を引く。オルヴァンも細剣を引く。重ねた掌は離れない。「一緒に」「うん」二人が同時に前へ出た。大太刀。細剣。二つの刃が黒い核へ届いた。白金の光が爆発した。声。風。悪魔のマナ。すべてが光の中へ消えていく。黒い核に亀裂が入った。異形が両腕を伸ばす。それでも二人は離れない。アデマールが歯を食いしばる。オルヴァンが重ねた掌をさらに強く押した。「アデ!」「うおおおっ!」亀裂が広がる。核が砕けた。光が戦場を貫いた。****静かだった。誰もすぐには動かなかった。黒い異形が立っている。胸の中央には大きな穴。その奥に、もう黒い核はない。身体の端から、灰のように崩れ始めた。指。腕。肩。角。やがて全身が崩れ、風へ流れていく。悪魔のマナも消えた。今度は戻らない。アデマールとオルヴァンはまだ掌を合わせたままだった。二つの紋の光がゆっくり薄くなる。オルヴァンが息を吐く。「終わりました?」「たぶん」「たぶんですか」「だってまた中から出てきたら嫌だろ」オルヴァンが笑った。その瞬間。盆地の向こうから歓声が上がった。一つの軍旗が大きく振られる。続いて別の場所。さらに遠く。「中央撃破!」「魔獣群が崩れた!」「西側も押し切ったぞ!」歓声が重なる。軍全体へ広がっていく。アデマールが肩の力を抜いた。「今度こそ終わりだな」オルヴァンの目に涙が浮かぶ。「はい」アデマールが重ねていた手を離し、そのままオルヴァンの腰へ回した。抱き寄せる。オルヴァンもすぐ首へ腕を回す。唇が重なった。短く終わらなかった。ベルトランが剣を鞘へ戻す。「おい」二人は離れない。シビラが肩をすくめた。「もう始まったわよ」ベルトランが大きく息を吐く。「帰ってからやれ!」アデマールがようやく唇を離した。「帰る!」オルヴァンも涙のまま笑った。「帰りましょう!」シビラが吹き出す。「そこだけ返事が速いのね」****戦場を離れられたのは、それからしばらく後だった。負傷者の確認。軍の引き継ぎ。各国の指揮官との短い挨拶。四人がすべて片づける必要はなかった。兵士は兵士の仕事へ戻り、治療班は負傷者を運び、各国の勇者たちは残った魔獣の確認へ向かった。若い勇者の一人がアデマールへ頭を下げる。「ありがとうございました」「俺たちだけじゃないだろ」アデマールは周囲を見る。疲れ切った兵士たち。泥だらけの魔術師。折れた盾を抱える獣人の兵。矢筒を空にしたエルフ。「みんなで勝った」若い勇者は頷いた。「はい」ベルトランとシビラは軍の本隊へ戻る。別れ際、シビラがオルヴァンへ手を振った。「また家へ行くわ」「アデを取りに来なければ」「こんな時まで言うの!?」オルヴァンが笑う。アデマールも笑った。ベルトランがアデマールを見る。「今度は戦場じゃなく酒な」「うちで飲もう」「ああ」四人はそこで別れた。****屋敷が見えたのは、日が傾き始めた頃だった。丘の向こうに屋根。その下に村。アデマールが馬上で身を乗り出す。「見えた」「はい」オルヴァンの声も弾んでいる。村へ入る。最初に気づいたのは、畑にいた少年だった。「あ!」走り出す。「帰ってきた!」その声で人が出てくる。畑から。家から。食堂から。屋根を直した職人も、水路の老人もいる。アデマールが馬を止める。少年が真っ先に来た。「遅い!」「ごめん」「ちゃんと帰ってきた?」「見れば分かるだろ」少年は今度はオルヴァンを見る。「オルさんも?」「帰ってきましたよ」老婆が人の間から出てきた。二人の泥と血の跡を眺める。「夕飯、取っといたよ」アデマールの顔が緩んだ。「ほんと?」「帰るって言っただろ」「うん」「だったら食べるだろ」オルヴァンの目がまた潤む。「ありがとうございます」老婆が手を振った。「泣く前に馬しまってきな」周りから笑いが起きた。二人も笑った。村を抜ける。見慣れた門。直した屋根。庭。台所の裏に植えた香草。アデマールが馬から降りる。オルヴァンも続く。二人で玄関の前に立った。アデマールが扉を開ける。「ただいま」オルヴァンが笑う。「おかえりなさい」アデマールが振り返る。「逆じゃない?」「どちらでもいいでしょう」「じゃあ、オルもただいま」「ただいま」二人で家へ入った。****夕食は、村から届いた煮込みだった。温め直した鍋を二人で食べる。パンもある。チーズもある。戦場ではほとんど食べられなかったせいで、アデマールは三杯食べた。「うまい」「ゆっくり食べてください」「腹減ってた」「分かりますけど」オルヴァンも二杯目をよそう。アデマールが笑う。「オルも食うじゃん」「僕もお腹が空いています」「おかわりする?」「お願いします」いつもの会話だった。それが妙に嬉しかった。食べ終わる。皿を洗う。戸締まりをする。庭の香草を見る。風呂へ入り、汗と土を落とす。戦場で破れた服は籠へ入れた。全部終わって、二人は寝室へ向かった。扉を開ける。自分たちの寝台がある。アデマールが立ち止まった。オルヴァンも隣で止まる。「帰ってきたな」「はい」アデマールがオルヴァンを見る。オルヴァンも見上げる。次の瞬間、どちらからともなく近づいた。唇が重なる。アデマールの腕が腰へ回る。オルヴァンの手が黒い部屋着を掴む。一度離れる。すぐまた重なる。今度は深い。「オル」「アデ」互いの名前しか出なかった。アデマールが抱き寄せる。オルヴァンは首へ腕を回し、自分から身体を押しつける。「帰ってきた」「はい」「オルと」「はい」「もう離したくない」「離れません」オルヴァンの目が濡れている。でも笑っていた。「アデ、欲しいです」アデマールの余裕が消える。オルヴァンを抱き上げる。脚が腰へ絡む。「俺も」寝台へ運ぶ。黒い部屋着をオルヴァンが緩める。白い部屋着へアデマールの指が掛かる。肌へ触れる。手を握る。何度も唇が重なる。「好きです」「俺も」「大好きです」「俺もだ」オルヴァンがアデマールの頬を両手で包む。「帰ってきてくれて、嬉しいです」アデマールが目を細める。「オルも」「はい」「一緒に帰ってきた」オルヴァンが嬉しそうに笑った。「はい」それ以上は言えなかった。また唇が重なる。離れたくないという気持ちのまま、二人の身体が重なった。****夜更け。オルヴァンはアデマールの胸の中へ収まっていた。毛布の中で脚が絡んでいる。アデマールが白い髪へ触れる。汗ばんだ額から髪を払う。オルヴァンが目を開けた。「アデ」「ん?」「明日もここですね」「うん」「明後日も?」「いる」オルヴァンが笑う。アデマールも笑った。「でも、そのうちまた行こうな」「どこへです?」「決めてない」「アデらしいですね」頬へ口づける。オルヴァンが胸へ寄る。「僕も行きたいです」「うん」「でも今は」少しだけ腕へ力を込める。「ここにいたいです」アデマールが背中を抱く。「俺も」窓の外には村の灯り。庭の音飾りが、風に揺れて小さく鳴った。二人はその音を聞きながら眠った。****翌朝。庭に卓を出した。焼いたパン。卵。果物。村からもらったチーズ。庭の香草を少し摘んで、オルヴァンが卵へ散らす。アデマールが一口食べる。「うまい」「育ちましたね」二人で香草を見る。旅の途中では小さな鉢だった。今は土の中から新しい葉がいくつも伸びている。アデマールが椅子へ深く座った。「今日どうする?」「屋根の残りを見ます?」「もう急がなくていいだろ」「では川まで散歩しますか」「それいい」パンを食べる。朝の風が気持ちいい。村の方から子どもの声が聞こえた。アデマールがふと思い出したように言う。「オル」「はい?」「次、どこ行く?」オルヴァンが笑った。「もう次ですか?」「そのうち」オルヴァンは少し考える。庭。屋敷。村。隣にいる夫。「しばらく、ここがいいです」アデマールが嬉しそうに頷く。「俺も」オルヴァンがパンを一口食べる。「でも、また行きたいです」「うん」アデマールが手を差し出した。オルヴァンがその手を取る。「行こう」「はい」今はまだ、二人とも椅子から立たなかった。朝食を食べ終えるまでは。** 英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ (終わり)