番外編1 誰が欲しいと言った
番外編1 誰が欲しいと言った
ベルトランが村へ入ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。王都での仕事を終え、北の街道を回って帰る途中だった。地図を見れば、アデマールとオルヴァンの領地までそれほど遠くない。なら一晩くらい寄っていくか。そう思っただけだった。村の入口で馬を歩かせていると、畑から老人が顔を上げた。「おや。ベルトランさんじゃないか」ベルトランも片手を上げる。「久しぶりだな」「今日は泊まりかい?」「そのつもりだ」老人は籠から豆を一掴みどころか、袋ごと差し出した。「じゃあ、これ持ってきな」「何で俺が」「アデさんち行くんだろ。夕飯になる」「そういうものか?」「そういうものだ」渡された。さらに少し進むと、今度は少年が走ってきた。「ベルトランさん!」腕に抱えている丸パンを一つ押しつけられる。「母ちゃんが、領主様んち行くなら持ってけって」「俺は荷運びじゃないんだが」「でも持てるだろ?」「……持てるけどな」少年は満足して走り去った。剣聖として各地へ行けば、普通はもっと身構えられる。この村では、アデマールたちの友人という扱いの方が強いらしい。豆とパンを抱えて馬を進めながら、ベルトランは少し笑った。悪くない。****屋敷では、アデマールが薪を割っていた。黒いシャツの袖を捲り、斧を振り下ろす。乾いた音とともに、太い薪が真っ二つになった。「相変わらず無駄にいい音だな」声を掛ける。アデマールが振り返った。「ベルトラン!」途端に顔が明るくなる。「何でいるの?」「近くまで来た」「泊まる?」「ああ」「よし」家の中へ向かって声を張る。「オル! ベルトラン来た!」「聞こえています!」少しして、オルヴァンが裏口から出てきた。白いシャツに淡い色の上着。「いらっしゃい、ベルトラン」「急ですまない」「何を言っているんですか。いつでも来てください」豆とパンを渡す。「途中でもらった」「またですね」オルヴァンは慣れた様子で受け取った。その隣へアデマールが立つ。そして、ごく自然にオルヴァンの腰へ腕を回した。ベルトランは嫌な予感がした。まだ何もしていない。本当に、何もしていない。「言っとくけど」来た。「オルは渡さない」「誰が欲しいと言った」即答した。オルヴァンが吹き出す。「アデ、ベルトランは今来たところですよ」「一応」「だから何の一応だ」アデマールは満足そうにオルヴァンを抱いたままだ。ベルトランは馬を繋ぐ。何年経っても、これだけは変わらないらしい。****夕食は三人で作った。アデマールが鍋。オルヴァンが野菜。ベルトランはもらった豆を剥く。食後はそのまま居間で酒になった。昔の戦場の話より、最近の村の話の方が多い。北の畑。直した橋。今年よく育った豆。村の子どもが川で大物を釣った話。アデマールがやたら楽しそうに話す。オルヴァンも横から補足する。「お前ら、本当にここが気に入ったんだな」ベルトランが言う。二人はほぼ同時だった。「うん」「はい」アデマールがオルヴァンの肩へ腕を回す。オルヴァンもそのまま寄った。それがあまりにも自然で、ベルトランは杯を傾けた。昔は二人とも、こんな顔をして暮らせる日が来るのかと思ったこともある。今では毎日飯を食い、畑の話をして、村人に名前で呼ばれている。十分だろう。そう思った時だった。アデマールがまた口を開いた。「まあ、でもオルは渡さないけど」ベルトランは杯を置いた。「まだ言うのか」「大事だから」「分かった」「ほんとに?」「なら、俺にも夫を見つけろ。それで満足するのか?」売り言葉だった。どうせアデマールが何かくだらないことを返して終わると思った。ところが。アデマールとオルヴァンが顔を見合わせた。一瞬だった。二人とも、妙に嬉しそうな顔をした。「いる」「いますよ」ベルトランは眉を寄せた。「……何が?」「候補」「候補の方です」「待て」アデマールが立ち上がる。窓を開けた。「エリアス! もういいぞ!」ベルトランは固まった。「何で外に誰かいるんだ」オルヴァンが少し申し訳なさそうに笑う。「実は、ベルトランが村に入ったと聞いてから来ていたんです」「何しに」「あなたに会いに」「俺に?」玄関の方で物音がした。入ってきたのは、二十代半ばほどの青年だった。村の醸造小屋で働いているという。栗色の髪。日に焼けた顔。背はベルトランより低いが、酒樽を扱う仕事らしく腕はしっかりしている。今は、その顔が耳まで真っ赤だった。手には酒瓶を一本抱えている。「し、失礼します!」声が裏返った。ベルトランはアデマールを見る。「説明しろ」「エリアス。前にお前が来た時から好きなんだって」「アデ!」オルヴァンが止める。遅かった。青年――エリアスはさらに赤くなった。「す、すみません! でも、好きです!」今度は本人が全部言った。ベルトランは黙った。アデマールも黙った。オルヴァンも黙った。エリアスだけが、自分で言った言葉に耐えきれず俯いている。「……そうか」ベルトランはそれしか言えなかった。アデマールが肩を揺らしている。笑うのを我慢しているらしい。殴ろうかと思った。オルヴァンがエリアスを助ける。「前に皆で集まった時、エリアスも庭にいたんです」「ああ」言われてみれば、いたような気もする。あの日は村中から人が来ていた。「最初は剣聖としてのベルトランを見て格好いいと思ったそうです。それから――」「自分で言います!」エリアスが顔を上げた。緊張したまま、それでも逃げなかった。「前に来られた時、子どもたちと遊んだり、お爺さんたちの酒に付き合ったりしてて……剣聖様なのに、普通に皆と話してて」一度息を吸う。「それ見てたら、もっと好きになりました」ベルトランは少し困った。剣を振ったわけではない。誰かを救ったわけでもない。酒を飲んでいただけだ。「変わったところを見るんだな」「すみません」「謝ることか?」「分かりません!」あまりに真剣なので、ベルトランは思わず笑った。エリアスの目が少し大きくなる。オルヴァンがここで口を挟んだ。「無理にどうこうという話ではありません。ただ」アデマールが続ける。「一杯だけ付き合ってやって」エリアスが慌てる。「本当に一杯でいいです! 話せるだけで!」ベルトランは青年を見た。緊張している。だが、嫌なら帰るつもりなのだろう。期待はしていても、押しつけてはこない。「……一杯だけな」エリアスの顔が一気に明るくなった。「はい!」分かりやすい。ベルトランはまた少し笑った。****四人で卓を囲んだ。エリアスが持ってきた酒は、この村で造ったものだった。「俺が仕込みを手伝ったやつです」「そうか」エリアスがベルトランの杯へ注ぐ。緊張しすぎて、少しこぼした。「あっ! すみません!」「大丈夫だ」「布を!」「いいから落ち着け」ベルトランが笑う。「酒よりお前の方がこぼれそうだぞ」「……はい」返事まで真剣だった。一口飲む。香りは軽い。後味が少し甘い。「うまいな」「本当ですか?」エリアスが身を乗り出す。「ああ」「よかった……」本当に嬉しそうだった。ベルトランは杯を置く。「お前が造ってるのか?」「まだ手伝いです。親方がいて。俺は樽を洗ったり、葡萄運んだり、仕込みの時に――」話し始めると、少し緊張が抜けた。今年は実がよかった。雨の多い年は味が変わる。親方は厳しいが腕はいい。いつか自分でも一本、最初から最後まで仕込んでみたい。剣聖の話をする時より、自分の仕事を話す時の方が声が自然だった。ベルトランはそちらの方が気に入った。「好きなんだな、その仕事」「はい」即答。少しして、エリアスが慌てる。「でも剣聖様のことも好きです!」「そこを張り合う必要あるか?」「ないです!」また笑った。アデマールが横から楽しそうに見ている。ベルトランは睨んだ。「何だ」「別に」「顔が腹立つ」「ベルトランが楽しそうだから」「酒がうまいだけだ」「そういうことにしとく」殴るなら後にしよう。****一杯は、すぐ空いた。エリアスが瓶を持つ。「もう少し……」途中で止める。「すみません。一杯だけでした」目に見えて残念そうだった。ベルトランは自分の杯を見る。「もう一杯くらいならいい」「いいんですか?」「俺が言ったんだ」「はい!」二杯目。今度はこぼさなかった。話は村のことへ移った。川。祭り。冬の酒蔵。村にアデマールとオルヴァンが来てからのこと。「最初は皆、すごい人が領主になったって緊張してたんですけど」エリアスが笑う。「今は?」「アデさんは普通に畑で怒られてます」「想像できる」「オルさんは皆に薬草聞かれてます。あと二人とも、すぐくっつきます」「それも知ってる」「ですよね」二人で笑う。ふとベルトランは思った。この青年は、自分だけを見ているわけではない。ちゃんとこの村で暮らしている。仕事があって。知り合いがいて。好きな場所がある。その上で、自分に会いたいと言ってきた。悪くない。「それと」エリアスが少し迷う。「何だ?」「剣聖様って呼ばない方がいいですか?」ベルトランは首を傾げる。「好きにしろ」「じゃあ……」少し間。「ベルトランさん」言った瞬間、また耳が赤くなった。名前一つでここまで緊張するものなのか。ベルトランは杯を口へ運ぶ。「その方が楽だな」エリアスが笑った。その笑顔を見て、ベルトランも口元を緩めた。****三杯目を飲んだ頃。ベルトランはふと気づいた。静かだ。正面を見る。アデマールがいない。その隣にいたオルヴァンもいない。杯も片づけられている。「……あいつらは?」エリアスが二階を指した。「お二人なら、部屋へ行きました」「いつ?」「ずいぶん前です」「気づかなかった」言ってから、少し驚いた。自分が。エリアスとの話に夢中で、あの二人が消えたことに気づかなかった。「何か言ってたか?」「オルさんが『邪魔しない方がいいですね』って」「アデマールは?」「ものすごく嬉しそうに頷いてました」ベルトランは額を押さえた。「最初からそのつもりだったな、あいつら」上から、かすかに笑い声がした。聞かなかったことにした。エリアスが杯を置く。「もう、帰った方がいいでしょうか」ベルトランは青年を見る。最初は一杯だけだった。とっくに約束の量を超えている。時間も遅い。帰らせる理由ならいくらでもある。けれど。「まだ酒あるか?」エリアスが顔を上げた。「あります」「じゃあ、もう少し付き合え」「はい!」やっぱり分かりやすい。それが少し可愛く見えた。****結局、かなり遅くまで飲んだ。四杯目からは数えていない。エリアスは酔うと少しだけ饒舌になった。剣聖のどこが格好いいかを延々語り始めたので、一度止めた。「もう分かった」「でもまだあります」「まだあるのか」「百倍って言った時、本当に――」「戦場の話はいい」「はい」しゅんとする。「嫌って意味じゃない」「はい!」復活が速い。今度はベルトランから質問した。「休みの日は何してる?」「川行ったりします。あと、木を削るのが好きで」「何作るんだ」「匙とか、小さい器とか」「意外だな」「何がです?」「酒樽抱えてる方が似合いそうだ」エリアスが笑った。「それは仕事です」その返しが自然だった。最初の緊張した青年とは少し違って見える。ベルトランは酒を飲む。こんなのも悪くない。ふと、そう思った。誰かに好かれて。その相手の話を聞いて。自分の話も少しする。大げさなことは何もない。次を決める必要もない。ただ、今夜は楽しい。それで十分だった。****門まで送った。夜空には星が出ている。エリアスは少し酔っていたが、足取りはしっかりしている。「今日は、本当にありがとうございました」「礼を言われるほどじゃない」「俺にはすごく嬉しかったです」まっすぐだった。ベルトランはこういう言葉に慣れていない。戦場で感謝されることはある。剣聖として崇められることもある。だが、これは少し違う。「……そうか」それしか返せなかった。エリアスは小さな包みを差し出した。「これ、よかったら」「何だ?」「酒のつまみです。干した果物と木の実」「また食い物か」今日は朝からよく渡される。エリアスが困ったように笑う。「村なんで」「そうだったな」受け取る。「ありがとう」青年の顔が、また嬉しそうに緩む。「じゃあ、おやすみなさい。ベルトランさん」「ああ。おやすみ」エリアスが歩いていく。道を曲がる前に、一度だけ振り返った。ベルトランもまだ門の前にいた。青年は慌てて手を振る。ベルトランも片手を上げた。姿が見えなくなる。しばらくしてから、屋敷へ戻った。居間には空いた酒瓶。二人分の杯。自分の手には小さな包み。「夫か」口にしてみる。さすがにそこまでは遠い。だが。また飲むくらいなら。それくらいなら、悪くない。****翌朝。ベルトランが起きると、アデマールとオルヴァンはすでに朝食を食べていた。二人とも妙に機嫌がいい。特にアデマール。嫌な予感がした。「おはよう」「おはよう、ベルトラン」オルヴァンが笑う。アデマールはもっと笑っている。「遅かったな」「酒飲んでた」「知ってる」「お前ら、いつ消えた?」「邪魔しない方がいいと思いまして」オルヴァンが平然と答える。アデマールがパンへ果物の煮たものを塗る。「俺がオルに、そろそろ二人にしようって」「アデ、ずいぶん前から言っていましたよね」「だっていい感じだったし」ベルトランは椅子へ座った。「最初から仕組んだな?」「紹介しただけ」「外で待たせてただろ」「本人が緊張して入れなかったんだよ」オルヴァンが温かい飲み物を置く。「嫌でしたか?」ベルトランは少し考えた。「……別に」アデマールの眉が上がる。「へえ」「その顔やめろ」「何も言ってない」「顔が言ってる」オルヴァンまで嬉しそうだ。「遅くまでお話しされていましたね」「酒があったからだ」「エリアス、喜んでいたでしょう?」「まあな」アデマールがベルトランの荷物を見る。昨日もらった食べ物の中に、小さな包みがある。「あ、それエリアスの?」「見るな」「もらったんだ」「うるさい」「次も会う?」「知らん」「嫌?」「嫌とは言ってない」言ってから、しまったと思った。アデマールの顔が最大まで緩んだ。オルヴァンまで口元を押さえている。「お前らな」「何?」「何でもありませんよ」絶対に何でもある。ベルトランは残っていたパンを取った。早く食べて帰ろう。これ以上いると、何を言われるか分からない。****出発する頃には、また荷物が増えていた。パン。豆。チーズ。保存肉。酒。そこへエリアスからもらった小さな包み。馬へ積む。アデマールとオルヴァンが門まで見送りに来た。「また来いよ」アデマールが言う。「仕事が近くならな」「仕事なくても来てください」オルヴァンも笑う。「村の皆さんも喜びます」ベルトランは馬へ乗る。「考えとく」アデマールがにやにやしている。「エリアスも喜ぶぞ」「だからその顔やめろ」「じゃあさ」まだ言う。「もうオルは狙わない?」ベルトランの額に青筋が浮いた。「最初から狙ってない!」オルヴァンが吹き出した。アデマールは腹を抱えて笑っている。ちょうど通りかかった村人まで何事かと振り返り、一緒になって笑い始めた。ベルトランは馬を進めた。まったく。何年経っても、面倒な夫夫だ。村を出る手前で、醸造小屋の前を通った。樽を運んでいたエリアスがこちらに気づく。一瞬驚き、それから大きく手を振った。「ベルトランさん!」ベルトランは馬を止めなかった。ただ、片手を上げた。「またな」言ってから、そのまま街道へ出る。背中に、青年の明るい声が届いた。次にこの道を通る理由が、一つ増えただけだ。それくらいなら。悪くない。