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第5話 大鐘のひび

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第5話 大鐘のひび

大河沿いの古都へ入った途端、鐘が鳴った。高い音。低い音。近い音。遠い音。いくつもの鐘が、朝の町のあちこちから重なって聞こえてくる。アデマールが足を止めた。「今の、どこ?」オルヴァンが耳を澄ませる。「川向こうです」「本当に?」「たぶん渡し場の鐘ですね」二人が少し歩く。今度は、甲高い音が三度続いた。アデマールがすぐオルヴァンを見る。「これは?」「市場の小塔です」「見てないのに?」「さっき地図にありました。方角と距離で分かります」「じゃあ次も当てて」「遊んでいます?」「面白いから」オルヴァンが笑った。古都は大河の両岸へ広がっていた。石造りの橋。長い河岸。荷車。船。古い塔。通りの角を曲がるたび、どこかから鐘の音が聞こえてくる。教会の時鐘。商館の鐘。渡し船を知らせる鐘。火事を知らせるための小さな警鐘まであるらしい。また鳴った。今度は低い。一度だけ。アデマールが指を立てる。「はい」「西です」「何の鐘?」「そこまでは分かりません」「外れ?」「方角は当たっています」「じゃあ半分正解」「何か貰えるんですか?」「当たったらキス」「外れたら?」「俺がキスする」「どちらでも同じでは?」「そうとも言う」オルヴァンが呆れた顔をする。アデマールは楽しそうだった。少し人通りの少ない路地へ入ったところで、頬へ軽く口づける。「今のは?」「何の分ですか?」「半分正解」「随分甘い採点ですね」二人はまた大通りへ戻った。****この町では、三日後に創建祭があるという。大河を挟んで広がった町が今の形になってから、ちょうど五百年。広場には色布が渡され、店先には花飾りが並んでいる。子どもたちは小さな紙旗を持って走り回り、河岸では祭り用の屋台が組まれていた。町の中心には大きな鐘楼がある。石造りの塔。その中に吊られた大鐘は、町が造られた頃から何度も鋳直されながら使われてきたものらしい。アデマールが塔を見上げる。「あれも鳴る?」「創建祭の最初に鳴らすそうです」「オル、あれも当てられる?」「あれだけ大きければ、町の外からでも分かると思います」「じゃあ簡単だな」「何と競っているんです?」鐘楼の下は人が多かった。縄。滑車。木材。足場。職人たちが忙しく動いている。祭り前の点検をしているようだった。その中心で、大柄な男が怒鳴っている。「そっちの縄、緩んでるぞ! 引き直せ!」「親方、こっち終わりました!」「なら上へ行け! 仕事は勝手に生えねえんだ!」灰色の髪。太い腕。革の前掛け。腕から肩まで古い火傷痕がある。男は二人に気づくと、一度だけ見た。すぐにアデマールの大太刀へ視線をやる。「兄ちゃん、力あるか?」アデマールが答える。「あるよ」「じゃあそこ持て」「いいの?」「持てる奴が立ってるのに遊ばせとく意味があるか」返事を待たず、男は太い綱を指した。アデマールが笑う。「分かった」オルヴァンが小声で言う。「もう働くんですか?」「面白そうだし」「観光中でしたよね」「これも観光」男が今度はオルヴァンを見る。「白い兄ちゃんは?」「僕ですか?」「耳いいか?」「普通よりは」「なら試し打ち聞け。変なら言え。原因は俺が見る」「分かりました」それだけで役割が決まった。男はグレドと名乗った。この大鐘を管理する鐘職人らしい。****大鐘の試し打ちは、正午前に行われた。鐘楼の周囲には職人だけでなく、祭りの準備をしていた町の人々も少し集まっている。グレドが塔の上へ合図を送る。大きな撞木が引かれた。一打。ごおん、と低い音が町へ広がる。大河の方まで音が伸びていく。アデマールがオルヴァンを見る。オルヴァンは鐘を見ていた。二打目。ごおん。その直後、オルヴァンの眉が僅かに動く。アデマールが先に気づいた。「違った?」「少しだけ」グレドがもう鐘楼へ走っていた。三打目は鳴らさない。塔の上から声が飛ぶ。「親方?」「止めろ! 今ので十分だ!」グレドは梯子を上る。オルヴァンも下から鐘を見上げた。アデマールが聞く。「何が違った?」「二打目だけ、音の後ろに細い響きが混じりました」「割れてる?」「そこまでは分かりません」しばらくして、グレドの怒鳴り声が塔の上から降ってきた。「ひびだ!」周囲がざわめく。グレドが降りてくる。手には黒い粉がついていた。「外側から見えにくい場所に細いひびが入ってる。試し打ちして正解だった」祭りの世話役らしい男が青くなる。「創建祭は?」「今鳴らしたら広がる。下ろすぞ」「三日で?」「三日ある」グレドは即答した。そして周囲を見回す。「おい、滑車増やせ! 工房に火入れろ! 鐘を下ろす!」「親方、人数が――」「いるだろ」グレドがアデマールを指した。「でかいのが」アデマールが自分を指す。「俺?」「さっき力あるって言ったな」「言った」「なら使う」オルヴァンが笑いを堪えている。アデマールが見る。「何?」「便利ですね、アデ」「俺、観光客なんだけど」グレドが遠くから叫ぶ。「観光客! 縄持て!」「おう!」アデマールは素直に向かった。****大鐘を下ろす作業は、町中の見物になった。鐘そのものは、人の背丈を大きく超える。何本もの縄を掛け、塔の内部に滑車を追加する。職人が足場を確認し、縄職人が一本ずつ結び目を見る。グレドはその間を歩き回り、必要な人間へ次々と仕事を振っていた。アデマールには鐘の重量を受ける主綱。オルヴァンには、縄が擦れる場所と鐘の傾きの確認。オルヴァンが鐘楼の下から見上げる。「右が少し下がっています」グレドが即座に上へ怒鳴る。「右を半巻き上げろ!」上から返事が来る。「半巻き!」鐘が僅かに水平へ戻る。原因を調べるのはグレド。作業を決めるのもグレド。二人は、必要なところだけ手を貸した。やがて大鐘がゆっくり下がり始める。綱が軋む。アデマールの両腕へ重量がかかる。周囲の職人も一斉に引く。グレドが鐘を見ている。「そのまま!」アデマールが聞く。「重い方?」「まだだ!」「了解!」鐘が足場の高さまで降りた。大きく揺れる。オルヴァンが片手を上げる。ほんの僅かに風を添えた。揺れが収まる。グレドがそれを見る。「今のは助かる! その程度でいい!」「はい!」鐘が地上近くへ来る。最後は太い木材で組んだ台へ慎重に降ろされた。どん、と低い音。周囲から息が漏れる。グレドはすぐ鐘へ近づいた。指で表面を叩く。耳を当てる。細いひびの周囲を布で拭く。「ここだ」外側の縁近く。よく見れば、髪の毛ほどの細い線が走っている。アデマールが覗く。「これだけ?」「これだけだから今直すんだ」グレドが答える。「鐘は鳴らして育てる。鳴らし方が悪けりゃ壊れるし、古くなりゃ癖も出る。小さいうちなら手を入れられる」オルヴァンがひびを見る。「二打目で少し開いたんですね」「たぶんな。原因はこっちで見る」グレドはもう工具箱を開けている。アデマールが笑った。「休まないの?」「祭りが三日後だぞ」「元気だな」「お前もな。鐘下ろして平然としてる奴に言われたくねえ」****午後は町を歩いた。修理そのものはグレドたち職人の仕事だった。鐘を一部温め、ひびの周囲を削り、補修する。冷却にも時間がかかる。アデマールとオルヴァンが横に立っていても、することはない。だから二人は祭り前の町へ戻った。屋台で焼いた川魚を食べる。蜂蜜を薄く塗った焼き菓子。香草入りの腸詰め。大河沿いには仮設の舞台も作られていた。アデマールが串を一本オルヴァンへ渡す。「これうまい」「さっきも食べましたよ」「もう一本」「半分ください」「いいよ」一本を二人で分ける。歩いていると、また鐘が鳴った。小さい。オルヴァンが反応するより先に、アデマールが聞く。「これは?」「南門です」「即答」「午前中にも鳴っていましたから」アデマールが満足そうに頷く。「覚えた?」「僕がですか?」「俺が」「本当です?」「南門」「では次はアデが当ててください」ちょうど別の鐘が鳴った。アデマールが止まる。考える。右を見る。左を見る。「市場」「違います」「早いな」「川向こうです」「じゃあキスだな」「なぜです?」「外れたから」「最初からそのルールでしたね」アデマールが笑って、頬へ軽く口づける。通りを行く人は誰も気にしない。祭り前の町では、それくらいの浮かれ方をしている者はいくらでもいた。****夕方、二人は再び鐘楼へ戻った。大鐘はまだ地上にある。補修した部分は熱を抜いている途中だった。グレドは椅子へ腰を下ろし、湯気の立つ飲み物を飲んでいた。アデマールが言う。「珍しく休んでる」「火を急かしても冷めねえ」グレドは大鐘を見る。オルヴァンもその隣へ立った。補修跡。縄。滑車。塔の上で明日の作業を始めている職人たち。しばらく黙って見ている。アデマールは、その横顔を見ていた。オルヴァンが気づく。「鐘を見ています?」「オル見てた」「またですか」「楽しそうだから」オルヴァンは大鐘へ視線を戻す。「こういう仕事を見るの、好きみたいです」「知らなかった?」「今、知りました」アデマールが笑う。「また一個増えたな」「何がです?」「オルの好きなもの」「覚えていてくださいね」「もちろん」アデマールが少しだけ近づく。人目はある。だから腰を抱く代わりに、肩を軽く寄せる。オルヴァンもそのまま離れない。グレドが二人を横目で見た。「暇なら明日の朝も来い」アデマールが聞く。「仕事?」「鐘上げる」「観光じゃないの?」「見物料代わりだ」オルヴァンが笑う。「行きましょうか」「オルが見たいなら」「見たいです」「じゃあ決まり」グレドが鼻を鳴らした。「話が早くて助かる」****翌朝、大鐘は塔へ戻された。補修した部分をグレドが最後まで確認する。滑車が回る。縄が張る。職人たちが声を掛け合う。アデマールも主綱へ入った。オルヴァンは昨日と同じ位置から鐘の傾きを見る。少しずつ、ゆっくり、巨大な鐘が元の高さへ上がっていく。固定金具。支え。撞木。すべて確認する。グレドが塔から降りてきた頃には、もう昼近かった。アデマールが聞く。「鳴らす?」「まだだ」「試さないの?」「今日は休ませる。明日の朝、一打だけだ」鐘職人は鐘を急かさなかった。祭りはその翌日。まだ間に合う。****創建祭の朝。町は日の出前から騒がしかった。広場には旗。河岸には屋台。橋には花飾り。人々が鐘楼を見上げている。アデマールとオルヴァンも広場の端に立っていた。グレドは鐘楼の真下。腕を組んでいる。試し打ちは昨日の朝に一度だけ済ませていた。音は戻っていた。それでも本番となれば、職人の顔は硬い。祭りの世話役が手を上げる。ざわめきが止まる。撞木が引かれた。一打。ごおん。深い音が古都を包んだ。大河の水面へ広がる。石橋を越える。屋根の上へ伸びる。オルヴァンが目を細めた。アデマールが横を見る。二打目。ごおん。今度も綺麗だった。細い濁りはない。グレドの肩がようやく落ちる。三打目。ごおん。歓声が上がった。紙旗が振られる。川沿いの別の鐘も一斉に鳴り始めた。高い音。低い音。近い音。遠い音。アデマールがオルヴァンを見る。「今のは?」オルヴァンが笑う。「さすがに分かります」「どこの鐘?」「僕たちがずっと待っていた鐘です」アデマールも笑った。****祭りが始まると、大鐘のことばかり見ている暇はなくなった。橋の上では楽師が演奏している。河岸では踊り。屋台から香辛料と焼いた肉の匂い。川船には色布が飾られ、子どもたちが岸から手を振っている。アデマールとオルヴァンは人混みの中を歩いた。焼き菓子。魚の串焼き。葡萄酒。甘い果実水。見つけるたびに少しずつ試す。オルヴァンが紙包みを持ったまま言う。「食べすぎでは?」「祭りだぞ」「明日の朝、重いと言わないでくださいね」「言わない」「本当に?」「オルも食べてる」「僕は少しずつです」「俺も少しずついっぱい食ってる」「それはいっぱいです」二人で笑う。夕方には河岸の舞台で踊りが始まった。アデマールが手を差し出す。「踊る?」「アデ、できます?」「たぶん」「不安ですね」「オルが合わせて」「逆では?」それでも手を取る。輪の端へ入る。難しい踊りではない。手を取って回る。隣へ送る。また戻る。何度か間違えた。そのたびオルヴァンが笑う。アデマールも笑う。鐘が遠くで鳴った。今度は誰も当てなかった。ただ祭りの音として聞いた。****夜。宿へ戻っても、二人にはまだ祭りの余韻が残っていた。窓の外から遠く音楽が聞こえる。オルヴァンが外套を脱ぐ。アデマールは椅子へ座り、靴を脱いだ。「楽しかった」「はい」オルヴァンも隣へ座る。アデマールが肩を抱く。オルヴァンが寄りかかる。「鐘、直ってよかったな」「グレドさんたち、嬉しそうでしたね」「オルも嬉しそうだった」「見ていました?」「ずっと」オルヴァンが顔を上げる。「今日は鐘もちゃんと見ましたか?」「見た」「本当に?」「オル七、鐘三くらい」「鐘の負けですね」「相手が悪い」オルヴァンが笑う。アデマールが頬へ触れる。軽くキス。一度離れる。オルヴァンからもう一度近づいた。今度は少し長い。昼間まで響いていた鐘も、祭りの人混みも、ここにはない。二人だけだった。アデマールの腕が背中へ回る。オルヴァンも肩へ手を置く。唇が離れる。「オル」「はい」「今日も可愛かった」「何を見ても結局それですね」「だってそうだし」「僕は、アデが縄を引いていたところが格好よかったです」「もっと言って」「一回で十分です」アデマールが笑う。オルヴァンも笑った。もう一度、唇が重なる。今度はそのまま離れず、ゆっくりと二人の距離がなくなっていった。服を緩める。髪へ触れる。頬へ触れる。互いに相手へ手を伸ばす。激しく欲が跳ね上がったわけではない。今日が楽しかった。鐘が鳴ってよかった。一緒に歩いて、一緒に食べて、一緒に笑った。その一日の続きを、そのまま二人で分け合うように身体を重ねた。****翌朝。窓の外から鐘が聞こえた。小さな鐘。オルヴァンがまだ毛布の中で目を開ける。アデマールも隣で片目を開いた。「今のどこ?」「朝からやるんですか?」「最後に一問」オルヴァンが少し耳を澄ませる。「宿の裏の教会です」「正解」「確認したんですか?」「してない」「では採点できないでしょう」「正解ってことにしよう」「適当ですね」アデマールが毛布の中でオルヴァンを引き寄せる。額へ口づける。オルヴァンも目を閉じたまま笑った。外では、もう一度同じ鐘が鳴った。