番外編2 私はアデマールを狙ってない
番外編2 私はアデマールを狙ってない
シビラが村へ着いた時、最初に捕まえたのはアデマールでもオルヴァンでもなかった。「シビラさん!」子どもが三人、道の向こうから走ってくる。「光る蝶やって!」「到着した人間への第一声がそれ?」「やって!」「十匹!」「増えてるじゃない」言いながら、シビラは指先を上げた。小さな光が浮かぶ。一つ。二つ。五つ。羽を広げた蝶の形になり、子どもたちの頭上を飛んだ。「わあ!」「こっち来た!」「触れる?」「触ろうとすると逃げるわよ」子どもが手を伸ばす。光の蝶がするりと避ける。歓声が上がった。結局、五匹だったはずの蝶は十二匹まで増えた。「甘いですね」後ろから声がした。振り返る。オルヴァンが笑っていた。隣にはアデマール。二人とも買い物帰りらしく、紙包みや野菜の入った籠を持っている。アデマールが笑う。「シビラ、もう馴染んでる」「あなたたちの村でしょう。何とかしなさいよ」「子どもに人気なんだからいいじゃん」「私、休みに来たのよ」オルヴァンが荷物へ目をやる。「今回は本当に仕事を持ってきていないんですか?」「持ってきてないわ」シビラは肩掛け鞄を叩いた。「魔術院の書類もなし。王宮の依頼もなし。返事を書いてない求婚状も置いてきた」アデマールが眉を上げる。「また増えた?」「今週だけで五通」「多いな」「男が三人、女が二人。全員、自分だけは特別だと思ってるのが一番疲れるのよ」オルヴァンが少し笑う。「シビラはモテますからね」「他人事だと思って」「僕はアデがいますので」その言い方が妙に満足そうだった。シビラは鼻で笑い、アデマールの肩を軽く叩く。「いいわねえ。相手が一人で済んで」その瞬間。視線を感じた。見る。オルヴァンがこちらを見ている。もっと正確には。アデマールの肩に置かれた、自分の手を見ていた。シビラはゆっくり手を離す。「何?」「何も」「その顔は何なのよ」「普通です」普通ではない。アデマールはすでに嬉しそうだった。「オル」「何です?」「今、シビラの手見てた?」「見てません」「見てた」「アデは黙っていてください」シビラは額を押さえる。「オルヴァン。私は毎週のように別の誰かから求婚されて疲れてるの。わざわざ既婚者まで狙わないわよ」「分かっています」「じゃあ何なの」「別に」アデマールが横から顔を覗き込む。「嫉妬?」「違います」「かわいい」「まだ何もしてません!」村へ着いて十分も経っていない。シビラは深く息を吐いた。今回も平和らしい。****昼食は二人の家で食べた。アデマールが肉を焼く。オルヴァンが野菜を刻む。シビラは卓へ座っていろと言われたが、待っているだけでは落ち着かない。台所へ入った。「アデマール、その火強いわよ」「そう?」「端が先に焦げる」シビラが指を振る。炉の火が均等に揃った。「そこ。鍋を少し右」「こっち?」「そう」アデマールが鍋を動かす。長く一緒に戦った相手だ。この程度なら話が早い。「昔より料理うまくなったわね」「だろ?」「昔から肉を焼くのは上手でしたよ」すぐ横から声が入った。オルヴァンだった。シビラが見る。「そうだった?」「はい。野営でも焼き加減だけは妙に上手でした」「へえ」シビラはアデマールを見る。「じゃあ昔からこういう味が好きだった?」「それは旅に出てからです」またオルヴァンが答えた。「香草をよく使うようになったのは南の地方へ行った頃からで、酸味のあるソースを好むようになったのはもっと後です」「……詳しいわね」「夫ですから」当然のように言う。シビラは少し考えた。試してみたくなった。「じゃあ、アデマールが朝一番に食べたがるものは?」オルヴァンは即答した。「卵料理です」「どんな?」「僕が作るものなら何でも」アデマールが大きく頷く。「正解」「あなたは黙ってて」シビラは次へ行く。「酒なら?」「濃い赤より軽いもの。ただし肉料理なら別です」「寒い日に最初にしたがること」「お風呂です」「腹が減ると?」「機嫌は悪くなりませんが、妙に僕へくっつきます」アデマールが振り返る。「それ関係ある?」「あります」シビラは笑いを堪えた。「本当に全部答えるのね」「だって僕の方が知っていますから」出た。オルヴァンは少し胸を張っていた。シビラが指を差す。「それよ」「何がです?」「あなた、私がアデマールを取ると思ってるんじゃなくて、私よりアデマールを知ってるって言いたいだけでしょう」オルヴァンが止まった。数秒。「……違います」「今の間で分かったわよ」「違います」「じゃあ次。アデマールが一番好きな――」「僕です」質問が終わる前だった。アデマールが鍋の前で固まった。シビラも固まる。オルヴァンだけが平然としている。「食べ物を聞こうとしたんだけど」「そうでしたか」アデマールの顔が崩れた。「オル」「何です?」「大好き」「肉を焦がしますよ」「オルが一番好き」「知っていますから、鍋を見てください」シビラは笑った。これは勝てない。というより、最初から勝負へ参加した覚えがない。****午後。シビラは村の女性たちのお茶会へ誘われた。木陰に長い卓。焼き菓子。果物。冷やした茶。仕事も魔法も求婚もない。これだけでも来た甲斐がある。「シビラさん、こっち座って」「ありがとう」椅子へ腰を下ろしかける。そこで止まった。向かいに座っている女性が、何かを抱いていた。灰白色の長い毛。丸い身体。頭の上には長い兎の耳。だが、くるりと巻いた尻尾は猫そのものだった。腕の中で丸くなり、鼻先だけをひくひく動かしている。シビラは椅子へ座るのを忘れた。「……それ」女性が自分の腕を見る。「この子?」「何?」「ウサギ猫だよ」「触っていい?」自分でも驚くくらい返事が速かった。女性が笑う。「もちろん」差し出される。シビラは慎重に両腕で受け取った。軽い。そして。柔らかい。想像していたより、ずっと柔らかい。「……何これ」指が毛の中へ沈む。温かい。兎の耳がぴくりと動く。次の瞬間、ウサギ猫はシビラの胸元へ鼻を寄せ、猫のような小さな音で喉を鳴らした。「……」「シビラさん?」「ちょっと待って」何を待つのか自分でも分からない。もう一度撫でる。ふわふわしている。耳の付け根。背中。丸い頬。全部柔らかい。「好き?」聞かれた。「……好き」思ったより小さな声が出た。周りから笑い声。シビラが顔を上げる。「何よ」「いやあ」「シビラさん、そんな顔するんだね「どんな顔」「欲しそうな顔」シビラはウサギ猫を見る。ウサギ猫もこちらを見る。「別に」「じゃあ返して」「もう少し」また笑われた。シビラは咳払いする。「こういう子、この村には多いの?」「そこそこ」「飼うの大変?」「毛は抜けるね」「食べるものは?」「野菜も食べるし、専用の餌もあるよ」「留守番は?」「慣れればできる」質問を重ねるたび、女性たちの顔がにやにやしていく。「欲しいんでしょう」「飼うかどうか調べてるだけ」「欲しいんだね」「……もし飼うなら、よ」腕の中で、ウサギ猫が顎を乗せてきた。シビラは黙った。可愛い。これは駄目だ。女性が言う。「この子んち、今ちょうど子どもがいっぱい生まれてるよ」「子ども?」声が一段高くなった。「六匹。さすがに全部は飼えないって、引き取り手探してる」シビラは反射的に聞いた。「どこ?」今度こそ全員が笑った。「欲しいんじゃない」「……話くらい聞くわよ」腕の中のウサギ猫を抱き直す。離す気は、まだなかった。****屋敷へ戻る。アデマールは庭で木片を削っていた。オルヴァンは洗った布を干している。シビラは門を入って、そのまま二人のところへ行った。「ねえ」「何?」アデマールが顔を上げる。「今日、お茶会にいた……」言葉が少し詰まる。オルヴァンがすぐ気づいた。「ウサギ猫ですか?」「そう。それ」オルヴァンの顔が明るくなる。「可愛かったでしょう!」食いつきが速い。「……まあね」「毛が長い子ですよね?」「そう」「耳の先だけ少し灰色で」「そう!」思わず強く答えた。アデマールが二人を見る。「何その盛り上がり」シビラは無視した。「子どもが生まれてるって聞いたんだけど」オルヴァンの目がさらに輝く。「見たいんですか?」「……一応」「欲しい?」「オルヴァン」「欲しいんですね」「一匹くらいなら」アデマールが笑う。「めちゃくちゃ欲しいじゃん」「うるさい」「その家なら知ってるよ」アデマールが木片を置く。「水路の向こうの家だろ?」「はい。僕も薬草を届けたことがあります」オルヴァンが言う。「本当に引き取り手を探しているはずです」シビラが二人を見る。「……そうなの?」「話、通してやろうか?」アデマールの一言に、シビラの顔が上がった。「本当に?」アデマールが笑う。「今日一番嬉しそう」「そんなことない」「ありますよ」オルヴァンまで笑っている。「今から行きましょう」「今から?」「気になるでしょう?」「……まあ」「行きましょう!」今度はオルヴァンの方が乗り気だった。****家の納屋の一角に、母親のウサギ猫と六匹の子どもがいた。シビラは入口で止まった。六匹。小さい。全部、小さい。白。灰色。薄茶。斑。耳だけ黒い子。尻尾の先だけ白い子。「……」隣でオルヴァンも止まっている。「……シビラ」「何?」「全員可愛いです」「分かってる」一匹がころころ転がった。二人同時にしゃがむ。「今の見ました?」「見た」「もう一回転がらないでしょうか」「転がしては駄目よ」「分かっています!」別の一匹がオルヴァンの膝へ前脚を掛ける。「シビラ」「何?」「見てください」「見てる」「登ってきます」「動かないで!」アデマールが後ろから覗く。「二人とも戦場より真剣じゃない?」「静かにしてください」「びっくりするでしょう」二人から同時に怒られた。アデマールは口を閉じた。家の女性が笑っている。「気に入った子がいたら連れてっていいよ。ちゃんと育つまではまだ少し待ってもらうけど」シビラは六匹を見た。選べと言われると困る。「この灰色の子、顔が丸いです」「こっちの白い子もかわいい」「耳の垂れてる子も」「待って、この子の足」オルヴァンが完全に同じ温度で返してくる。しばらく二人で床に座り込んだ。アデマールは途中から諦めて、母親のウサギ猫を撫でていた。やがて、薄い灰色の子がシビラの裾へ近づいてきた。ローブへ前脚を掛ける。「ん?」登る。シビラが手を添え、床へ戻した。「危ないわよ」数歩離れた場所へ置く。また来る。登る。「……」もう一度戻す。また来る。今度は膝までよじ登った。オルヴァンが笑う。「シビラ、その子、シビラがいいみたいですよ」「そう見える?」「三回も戻ってきています」シビラは膝の上の子を見る。小さな鼻。まだ短い耳。丸い前脚。指を差し出すと、鼻先をつける。そしてそのまま手の上へ顎を乗せた。決まった。「……この子にする」オルヴァンが嬉しそうに笑った。「可愛いですね」「でしょう?」答えてから気づく。もう完全に自分の子の言い方だった。アデマールが吹き出す。「まだ連れて帰ってないぞ」「うるさい」****その日の夕方。シビラとオルヴァンは、屋敷の卓へ紙を広げていた。必要な餌。寝床。毛を梳く道具。水入れ。移動用の籠。シビラが指で順番に確認する。「王都で大体買えるわね」「餌はここのものも少し持っていった方がいいかもしれません」「最初は同じ方が落ち着く?」「たぶん。その方がいいです」「毛は毎日梳いた方がいい?」「長毛ですから」シビラが真剣に頷く。アデマールは向かいで果物を食べている。「名前は?」「まだ」「決めないの?」「顔見てから決める」オルヴァンが頷く。「その方がいいですね」「寝床は窓の近くだと寒いかしら」「冬は避けた方がいいと思います」「私の寝室なら暖かい」「一緒に寝るんですか?」「……最初は別よ」オルヴァンが笑う。「最初は、ですね」「何よ」「すぐ寝台に上げそうです」否定できなかった。シビラは紙へ目を戻す。アデマールが果物を齧りながら言う。「仕事から帰ったら待ってるんだな」シビラの手が止まった。王都の家。静かな部屋。持ち帰った書類。返事の必要な手紙。届いているかもしれない次の求婚状。今までは、それだけだった。そこに。小さな灰色の塊がいる。帰れば、自分を見て耳を動かす。「……そうね」オルヴァンが柔らかく笑った。「帰るのが楽しみになりますね」「うん」思わず素直に返した。シビラは少し照れて茶を飲む。「これで少しくらい仕事が多くても耐えられそう」「仕事は減らしてください」「それは無理」「求婚は?」「減らないでしょうね」「断れば?」「断ってるわよ。だから疲れるの」アデマールが首を傾げる。「全員?」「今のところ」「もったいない」「あなたは黙ってオルヴァンだけ見てなさい」「言われなくても」アデマールがオルヴァンを見る。オルヴァンもすぐ見返す。シビラは思った。本当に言う必要がなかった。****翌朝。シビラは帰り支度をしていた。子ウサギ猫を引き取れるのは、もう少し大きくなってから。その時はまた村へ来る。それだけで、次の休みが少し楽しみになっている。オルヴァンは最後まで、「毛を梳く道具は柔らかいものがいいと思います」「分かった」「あと、寝床の布は爪が引っかかりにくいものを」「それも買う」と話していた。シビラも、「餌は最初ここのを少し分けてもらう」「はい」「王都でいい店を探しておく」「僕も何か見つけたら手紙を書きます」すっかり意気投合している。アデマールが荷物を馬へ載せながら言った。「二人、昨日からずっとウサギ猫の話してるな」「可愛いですから」「可愛いものは大事なのよ」シビラとオルヴァンの返事が重なった。二人で顔を見合わせる。笑った。「オルヴァン、今度王都へ来たら一緒に店を見ましょう」「いいですね」「この子用の首飾りも欲しい」「絶対可愛いです」「ね」「はい!」アデマールが苦笑する。「仲いいなあ」「元から仲いいわよ」「そうですよ」シビラは鞄を確認する。「そうだ、アデマール」「何?」「次に王都へ来る時、こっちから持っていきたい餌とか籠があったら運ぶの手伝って――」「シビラ」オルヴァンの声。シビラは止まった。嫌な予感がした。見る。オルヴァンがこちらを見ている。「何?」「アデは僕の夫ですからね」「またそこに戻るの!?」「荷物を運ぶだけでしょうけど」「そうよ!」「ならいいです」「何がよ!」アデマールの顔が、また最高に嬉しそうになる。「オル、やっぱり嫉妬――」「アデは黙っていてください」「かわいい」「黙ってください!」シビラは額を押さえた。さっきまで一緒に子ウサギ猫の首飾りを選ぶ約束をしていた相手とは思えない。「オルヴァン」「何です?」「昨日、私がどれだけ求婚されて疲れてるって話したか覚えてる?」「覚えています」「その私が、何でわざわざアデマールを狙うのよ」「狙っているとは言っていません」「じゃあ何なの!」オルヴァンは少し考えた。それから、何でもないことのように答える。「アデのことは、僕が一番よく知っていますから」シビラは数秒黙った。「……そこなのね」「はい」「本当にそこなのね」「はい」アデマールが隣で幸せそうに笑っている。シビラはもう諦めた。「分かったわよ。好きなだけ一番でいなさい」「そうします」即答だった。「素直ね!」その時、昨日の家の女性が道の向こうから歩いてきた。腕には、母親のウサギ猫。「シビラさん、帰る前に顔見てく?」シビラの表情が一瞬で変わった。「見る!」オルヴァンも同時だった。「僕も行きます!」二人で駆け寄る。アデマールだけが荷物の横へ残された。「俺は?」誰も聞いていなかった。****少しして。シビラは馬上から、二人へ手を振った。「じゃあ、また来るわ」「待っています」オルヴァンが返す。アデマールも片手を上げる。「今度はウサギ猫迎えに来る時だな」「そうね」「荷物いるなら俺が――」オルヴァンがアデマールを見る。アデマールが止まった。「……オルと一緒に手伝う」「それならいいです」シビラは吹き出した。「あなたたち、本当に面倒ね」「仲いいだろ?」「そこは否定しないわ」馬を進める。村を出る直前。昨日の家の前を通った。庭に置かれた籠の中で、六匹の子ウサギ猫が遊んでいる。そのうち一匹。薄い灰色の子がシビラに気づいたのか、籠へ前脚を掛けた。耳が立つ。シビラも手を上げた。「もう少し待ってなさい」小さく鳴く。王都へ帰れば、また忙しい。仕事もある。求婚状も、おそらく増えている。それでも。今度から帰宅した先には、この子がいる。そう思うだけで、少し笑えた。そして次にこの村へ来た時も、きっとオルヴァンとは可愛いものの話で盛り上がる。ただし。アデマールの話だけは別らしい。シビラは肩をすくめた。「私はアデマールを狙ってないっていうのに」遠くでウサギ猫が、もう一度小さく鳴いた。