LNCrawler

第6話 指輪がない

英雄夫夫のしあわせ諸国漫遊 ~世界を救ったので、ふたりでのんびり暮らす場所を探します~ — fujossy.jp · All chapters

第6話 指輪がない

「アデ。僕、もうここから出たくありません」湯船の縁へ頭を預けたまま、オルヴァンが宣言した。白い湯気の向こうで、アデマールが笑う。「まだ朝だぞ」「だからです。一日あります」「何する?」「温泉に入ります」「今入ってる」「出たら饅頭を食べます」「うん」「また温泉に入ります」「戻るの早くない?」「それから昼寝します」「結構忙しいな」オルヴァンが満足そうに目を閉じた。「完璧でしょう?」山あいの温泉町へ着いたのは、ほんの一時間ほど前だった。石畳の坂道に宿と湯屋が並び、軒先から白い蒸気が上がっている。町を流れる小さな川にも湯気が漂い、橋のたもとでは蒸した饅頭を売っていた。二人は宿を取るなり荷物を置き、そのまま貸切の露天風呂へ来ていた。岩造りの湯船の向こうには、緑の山が広がっている。アデマールも肩まで湯へ沈む。「何日いる?」「三日くらい」「五日でもいいぞ」「本当ですか?」「うん」「では五日で」「即決だな」オルヴァンが嬉しそうに笑った。いつもの白い長手袋も、アデマールの黒い革手袋も、今は脱衣籠の中だ。二人とも掌の女神紋まで晒している。貸切なので気にする必要もない。アデマールが腕を広げた。「こっち来る?」「行きます」オルヴァンが湯の中を移動し、その腕の内側へ収まった。背中を預ける。アデマールが濡れた白い髪を指で梳く。「気持ちいい?」「すごく」「温泉?」「両方です」頬へ口づける。オルヴァンが目を閉じた。「もう一回」「はいはい」こめかみ。もう一度、頬。オルヴァンが振り向いたので、最後は唇へ触れる。短く離れる。今度はオルヴァンから唇を重ねた。アデマールが笑う。「まだ?」「まだです」「のぼせるぞ」「では続きは上がってから」「饅頭より先?」オルヴァンが少し考えた。「……饅頭の後で」「負けた」二人は声を上げて笑った。****湯上がりには、冷たい果実水が用意されていた。薄い部屋着へ着替えたオルヴァンは、長椅子へ座るなり半分ほど飲んだ。「生き返ります」「さっきまで湯船で幸せそうだったけど」「温泉でも生き返って、冷たい飲み物でも生き返るんです」「便利だな」アデマールも隣へ座り、冷えた杯を頬へ当てた。窓の外には、湯籠を下げた客たちがのんびり坂道を歩いている。急いでいる人がほとんどいない。それが妙に心地よかった。二人はそのまま町へ出た。橋のたもとで蒸したての饅頭を二種類買う。オルヴァンが白い方を半分割った。「アデ、こっち食べてください」「黒い方と交換?」「はい」アデマールも自分の饅頭を割る。互いに半分ずつ渡す。「どっち好き?」「……迷います」「真剣だな」「大事な問題です」次は足湯。並んで腰を掛け、湯へ足を浸しながら、地元の果物を蜜煮にした菓子を食べる。さらに別の共同湯へ入り、出たところで冷たい乳飲料を一本ずつ。昼には山菜と川魚の料理。アデマールが焼き魚を崩しながら言う。「この町、何しても風呂に戻るな」「それがいいんですよ」「明日も?」「もちろん」「五日ずっと?」「できれば」「本気だったんだ」「最初から本気です」食後は宿へ戻った。窓を少し開けると、川の音が聞こえる。アデマールが布団へ転がる。オルヴァンも隣へ入った。「お昼寝しましょう」「はいよ」最初は自分の枕を使っていたオルヴァンの頭が、少しずつ近づいてくる。やがてアデマールの肩へ乗る。さらに片腕が腹へ回った。アデマールは何も言わず、その身体を抱き寄せた。二人が目を覚ました頃には、窓から差す光が少し赤くなっていた。オルヴァンが目を擦る。「……寝ましたね」「寝たな」「最高です」「夕飯まで寝る?」「その前にお風呂です」「また?」「せっかく温泉町にいるんですよ」アデマールは笑った。「元気だなあ」****夕方に入ったのは、宿の内湯だった。脱衣所の壁に、小さな注意書きがある。湯の成分で、銀製品が変色することがあるらしい。オルヴァンが左手を見る。薬指には細い銀の指輪。アデマールの左手にも、同じ意匠のものがある。二人が結婚した日に交換した指輪だった。「外しましょうか」「そうだな」アデマールが先に外す。オルヴァンも外した。二つを、小さな乾いた手拭いの上へ並べる。アデマールが見比べた。「俺の方、傷多いな」「剣を握りますからね」オルヴァンが自分の指輪も指先で転がした。細かな傷が幾つもある。「僕のも増えました」「旅してるしな」「でも、僕、この傷も好きです」アデマールが指輪を見る。少し笑った。「俺も」二つを手拭いで軽く包み、脱衣籠の隅へ入れる。それから二人は、何の心配もなく風呂へ入った。湯は朝の露天風呂より少し熱い。オルヴァンは肩まで浸かると、すぐアデマールの隣へ移動した。「今日、何回目ですか?」「足湯も数える?」「数えます」「四回」「まだいけます」「明日も?」「朝からです」アデマールが笑い、濡れた肩を抱く。オルヴァンはそのまま身体を預けた。「五日って短いかもしれません」「増やす?」「考えておきます」「危ないな、この町」****風呂から上がった。身体を拭き、服を着る。アデマールが黒いシャツの襟を整えている隣で、オルヴァンも白いシャツへ袖を通す。最後に脱衣籠へ手を伸ばした。オルヴァンが手拭いを開く。銀の指輪が、一つだけあった。二人とも止まった。オルヴァンがもう一度、布を広げる。裏返す。何もない。アデマールが籠を見る。底も。隅も。空だった。「……ない」「もう一度見ます」オルヴァンがすぐしゃがんだ。籠の下。長椅子の下。自分の服。アデマールの服。アデマールも黒いシャツを脱ぎ、袖まで振る。「ない」「僕の方も見ます」白い服。手袋。手拭い。ない。アデマールの表情から、さっきまでの緩さが消えていた。「オル」「はい」「俺、あれ失くしたくない」「僕もです」オルヴァンは残っていた自分の指輪を握る。声は静かだった。けれど指先に力が入っていた。「探しましょう」「ああ」二人はすぐ番頭を呼んだ。****「銀の指輪ですね?」番頭がオルヴァンの指輪を見る。「これと同じ意匠です」「分かりました」番頭は一度、脱衣籠を見た。その時、通りかかった若い仲居が足を止める。「あ、その籠」三人が見る。「さっき替えました。濡れていたので、乾いたものと」アデマールがすぐ立ち上がった。「替えた籠は?」「裏の物干し場です」若い仲居が先に走る。二人も続いた。物干し場には、湿った竹籠がいくつか並べられていた。仲居が一つを指す。「これです」アデマールとオルヴァンが同時にしゃがむ。籠の中には何もない。アデマールが持ち上げる。オルヴァンが編み目を見る。銀色の光が、小さく覗いていた。「アデ」声が震えた。竹の編み目と、引っかかった薄い手拭いの間。そこに指輪がある。アデマールが動きを止める。指先でそっと取り出した。細かな傷。見慣れた銀色。自分の指輪だった。「……あった」オルヴァンの肩から力が抜ける。アデマールも長く息を吐いた。若い仲居が胸を撫で下ろす。「よかったです。籠を替えた時に、布ごとずれて挟まったんですね」アデマールが何度も頷く。「ありがとう」「本当にありがとうございます」オルヴァンの声も少し掠れていた。「いえいえ。見つかってよかったです」仲居と番頭が戻っていく。二人だけが物干し場に残った。夕方の冷たい風が、湯上がりの頬へ触れる。アデマールが掌を開く。指輪がある。オルヴァンはそれを見た。目が潤む。何も言わず、アデマールの左手を取った。指輪をつまむ。薬指へゆっくり戻す。根元まで収める。そのまま、指へ口づけた。「……よかった」一粒、涙が落ちた。アデマールの胸が強く締まる。「オル」オルヴァンが顔を上げる。次の瞬間、自分から抱きついた。アデマールもすぐ抱き返す。強く。いつもより強く。オルヴァンは胸元へ顔を埋めたまま、しばらく動かなかった。アデマールが白い髪へ頬を寄せる。「あった」「はい」「ちゃんと戻った」「はい」オルヴァンが顔を上げる。目元はまだ濡れていた。そのまま唇を重ねた。アデマールが一瞬驚く。すぐ応える。一度離れる。オルヴァンがまた近づく。二度目。さっきより長い。アデマールの腕が腰へ回る。オルヴァンの左手が黒いシャツを掴む。薬指の銀輪が見えた。それを見た瞬間、アデマールの中で、ほっとした気持ちとは別の熱が一気に上がった。唇が離れる。「オル」「もっと」返事より先に、またキスが来た。アデマールも止めなかった。そのまま腰を抱き寄せる。遠くから宿の人の声が聞こえた。二人とも一瞬だけ動きを止める。ここは物干し場だ。人が来る。アデマールがオルヴァンの手を取った。「こっち」貸切風呂の区画へ戻る。今は使われていない。奥には、小さな湯上がり用の休憩室があった。低い長椅子と、敷物。水差し。扉を閉める。その音がした途端、オルヴァンがまたアデマールへ抱きついた。今度はアデマールも待たない。頬を包み、唇を重ねる。深く。長く。何度も。オルヴァンの腕が首へ回る。身体がぴったり重なる。「アデ」「ん?」「今日は、たくさん触ってください」アデマールの目が熱を帯びる。「うん」「僕も触りたいです」オルヴァンが黒いシャツの胸元へ手を掛けた。留め具を緩める。アデマールも白い襟元へ触れた。肌へ指が触れる。オルヴァンが小さく息を漏らし、すぐ自分から近づいた。「もっと」「俺も」アデマールが抱き上げる。オルヴァンは迷わず首へ腕を回し、脚を寄せた。長椅子へ下ろしても離れない。アデマールが白い髪へ口づける。頬。首筋。また唇。オルヴァンの左手を取る。指を絡める。二つの銀の指輪が触れ、小さく音を立てた。オルヴァンがそれを見る。また目が潤んだ。でも今度は笑っていた。「ありますね」「うん」アデマールがその手へ口づける。「ちゃんとある」オルヴァンが指を絡め直した。「離さないでください」「離さない」服をゆっくり緩める。触れた肌へ手を滑らせる。オルヴァンもアデマールの肩、胸、背中へ触れていく。普段から何度も触れている身体。それなのに今日は、確かめるように何度でも触れたくなった。唇が重なる。脚が絡む。指も絡んだまま。「アデ」「うん」「好きです」「俺も。大好き」オルヴァンがもう一度キスを求める。安堵も、嬉しさも、愛しさも、そのまま熱へ変わっていく。二人は人の来ない小さな休憩室で、互いを強く抱きながら身体を重ねた。****しばらくして。オルヴァンは長椅子へ背を預け、アデマールの胸に抱かれていた。少し乱れた白い髪を、アデマールが指で整える。オルヴァンは左手を持ち上げる。指輪がある。ただ見ただけで、今度は何も確かめなかった。アデマールが頬へ口づける。「落ち着いた?」「かなり」少し間を置く。オルヴァンの頬が赤くなった。「……部屋まで戻れませんでしたね」「無理だった」「僕もです」二人で笑った。アデマールが額へ口づける。「腹減った」「僕もです」「夕飯間に合う?」「行きましょう」立ち上がる。服を整える。オルヴァンがアデマールの襟を直す。アデマールも白い髪を整えた。「これで平気?」「たぶん」「たぶん?」「アデも少し赤いですよ」「オルも」また二人で笑った。****夕食には、山菜の天ぷら、川魚の塩焼き、湯豆腐、茸の吸い物が並んだ。宿の女主人が事情を聞いていたらしく、温泉饅頭まで二つ余分についている。オルヴァンが一口食べる。「おいしいです」「やっと普通に味するな」「はい」アデマールも酒を飲む。二人とも一度だけ、自分たちの左手を見た。目が合う。それだけで笑った。アデマールが言う。「今日、疲れたな」「朝から温泉に入って、食べて、寝ていただけなのに」「夕方だけ濃かった」オルヴァンの耳が赤くなる。「……そうですね」「明日は平和にしよう」「朝風呂へ行きます」「それは決定なんだ」「当然です」****翌朝。窓の外には、温泉町の白い湯気が上がっていた。オルヴァンはアデマールの腕の中で目を覚ます。少し身体を伸ばす。アデマールも目を開けた。「朝風呂?」「行きます」「饅頭?」「食べます」「昼寝?」「します」アデマールが笑った。「昨日と一緒だな」「まだ五日のうち二日目ですから」オルヴァンが布団から起き上がる。左手の指輪を一度だけ見た。それから外す。アデマールも同じように自分の指輪を外した。二つを部屋の小箱へ並べる。オルヴァンが蓋を閉じる。「今日はここで待っていてもらいましょう」「賛成」アデマールが手を差し出す。オルヴァンが握った。指輪はなくても、手はいつも通り繋がる。「行く?」「はい」二人は朝風呂へ向かった。温泉町での二日目も、かなり忙しくなりそうだった。