第7話 寒いって、いいですね
第7話 寒いって、いいですね
北の港町へ着いて、アデマールが最初に言ったのは。「寒っ」「寒いですね」だった。海から吹く風が容赦なく頬を刺す。空はよく晴れている。海も青い。港には漁船が並び、朝の市場では銀色の魚が台いっぱいに並んでいる。景色はいい。けれど寒い。オルヴァンは白い外套の襟を押さえた。アデマールも肩を縮める。「もうちょっと風、弱くてもよくない?」「海ですから」「オル、平気?」「寒いです」即答だった。アデマールが笑う。「手、貸して」「はい」白い長手袋の手を取る。黒い手袋越しに握る。オルヴァンが少しだけ近づいた。「暖かいです」「俺も」市場の前で網を繕っていた年配の漁師が、二人を見て笑った。「旅の兄ちゃんたち、寒そうだな」「寒いです」オルヴァンが素直に答える。漁師は歯を見せて笑った。「寒いのも悪いことばかりじゃねえぞ」アデマールが首を傾げる。「いいことある?」「あるとも」「本当ですか?」「一日いりゃ分かるさ」それだけ言って、漁師はまた網へ目を戻した。アデマールとオルヴァンは顔を見合わせる。「何だと思う?」「魚がおいしい、とかでしょうか」「それなら寒くなくてもいいよな」「そうですね」海風が吹く。二人とも同時に肩を縮めた。「寒い」「寒いです」結局、手はつないだまま市場へ入った。****朝の市場の端に、湯気の立つ大鍋があった。白身魚。玉葱。根菜。香草。少し白濁した熱いスープが木椀いっぱいによそわれる。二人は風の当たりにくい壁際へ移動した。オルヴァンが両手で椀を持つ。「暖かい……」一口。目元が緩む。アデマールも飲んだ。「うまっ」「おいしいですね」「これなら寒いのも――」「まだ早いですよ」オルヴァンが笑う。アデマールも笑った。スープ。黒パン。焼いた小魚。朝からしっかり食べる。椀が空になる頃には身体も少し暖まった。「よし。港見るか」「はい」外へ出る。風が吹く。「寒っ」「寒いですね」すぐ元に戻った。オルヴァンがアデマールの腕へ寄る。アデマールは嬉しそうに外套の端を少し開いた。「入る?」「入れるんですか?」「半分」「では失礼します」オルヴァンがさらに身体を寄せる。一枚の黒い外套へ白い肩が半分潜り込む。歩きにくい。けれど二人とも離れない。「これいいな」「暖かいです」「歩きにくいけど」「ゆっくり行きましょう」それで決まった。****昼前になると、浜辺が騒がしくなった。大勢の人が二列に分かれて、海へ伸びた太い綱を引いている。漁師だけではない。魚屋。荷運びの男。市場のおばさん。子どもまで後ろの方で声を上げている。「地引網ですね」オルヴァンが足を止めた。アデマールも目を輝かせる。「見る?」「見たいです」二人は浜へ下りた。朝の漁師がいた。「おう、寒がりの兄ちゃんたち」綱を引きながら笑う。「今日は入ってるぞ!」海の中で網が大きく膨らんでいる。浜の人々が声を合わせる。「わっしょい! わっしょい!」「わっしょい! わっしょい!」綱が少しずつ上がる。アデマールの身体が前へ傾いた。オルヴァンが横を見る。「アデ」「うん」「手伝いたい顔をしています」「分かる?」「もう綱を見ています」アデマールが朝の漁師へ声を掛ける。「混ざっていい?」「引けるなら入れ!」アデマールがすぐ列へ入った。数歩進んでから振り返る。「オルもやる?」「やります」返事が早い。オルヴァンも白い外套の裾をまとめ、反対側の列へ入った。漁師から綱を渡される。「腰落とせ! 足滑らすなよ!」「はい!」オルヴァンが両手で綱を握る。細身の身体を後ろへ倒す。「わっしょい! わっしょい!」周囲に合わせて声を上げた。一生懸命だった。白い髪が風に揺れる。頬が少し赤い。足を踏ん張る。「わっしょい! わっしょい!」向かい側の列でアデマールが思わず笑った。「オル、楽しそう!」「アデもでしょう!」オルヴァンも笑っている。さらに引く。「わっしょい! わっしょい!」網が近づく。そこで急に綱が重くなった。列全体が止まる。「おい、重いぞ!」誰かが叫ぶ。海面で大きなものが跳ねた。水飛沫。銀色。次の瞬間、浜から歓声が上がった。「大物だ!」「でっけえぞ!」網の中に、見慣れないほど大きな魚がいる。人の背丈ほどもある銀背の回遊魚。その周りにも小さな魚が何十匹も跳ねていた。アデマールの顔がさらに明るくなる。「うわ、でかい!」綱を握る手に力が入る。ただし一人で引かない。周囲の動きへ合わせる。朝の漁師が叫んだ。「せーので行くぞ!」「おう!」「せーの!」「わっしょい! わっしょい!」オルヴァンも必死で引く。「わっしょい! わっしょい!」靴が砂へ沈む。少し滑る。すぐ踏ん張る。また引く。「わっしょい!」アデマールは向こう側からオルヴァンを見る。白い服。赤い頬。必死な顔。それなのに楽しそう。一瞬、魚よりそちらへ目を奪われた。「兄ちゃん、前見ろ!」漁師に怒鳴られる。「おう!」また笑いが起きた。最後の一引き。大きな波と一緒に網が浜へ上がる。銀背の大魚が砂の上で跳ねた。歓声。子どもたちが駆け寄る。漁師たちが手際よく魚を押さえる。オルヴァンは綱を離すと、その場で大きく息を吐いた。「疲れました……」アデマールが駆け寄る。「楽しかった?」「すごく!」即答だった。アデマールが笑う。オルヴァンも笑う。二人とも、さっきまで寒いと言っていたことを忘れていた。****大物が獲れた日は、そのまま宴会になるらしい。朝の漁師が言った。「兄ちゃんたちも来い!」アデマールが大魚を見る。「いいの?」「引いた奴は仲間だ!」オルヴァンが嬉しそうに言う。「行きましょう」「もちろん」夕方。港の共同小屋には長い卓が並んだ。昼に獲れた魚が、もう料理になっている。厚く切って炙った身。塩と香草を振った焼き物。根菜と煮込んだ鍋。脂の多い腹側は薄く切って炙られていた。黒パン。酢漬け野菜。湯気が小屋いっぱいに広がっている。アデマールが焼き魚を口へ入れた。「うまい」「こっちもおいしいです」オルヴァンが鍋を指す。すぐ交換する。一口ずつ食べる。地元の人々も騒がしい。昼の地引網の話。大魚の大きさ。誰が一番綱を引いたか。子どもが、「白い兄ちゃん、ずっとわっしょいって言ってた!」と笑う。オルヴァンの耳が赤くなる。「皆さん言っていたでしょう」「でも一番真面目だった!」アデマールが横で笑う。「可愛かったぞ」「アデ」オルヴァンが睨む。しかし口元は笑っている。そこへ熱い酒が運ばれてきた。蜂蜜と香辛料を少し入れた酒を、温めてある。湯気が立つ。オルヴァンが両手で杯を持つ。一口。「……暖かい」アデマールも飲む。喉から腹へ熱が落ちていく。「これいいな」もう一口。身体の奥から暖まる。オルヴァンの頬が少しずつ赤くなった。寒さ。地引網。熱い料理。酒。いろいろ混ざっている。アデマールがじっと見る。オルヴァンが気づいた。「何です?」「頬、赤い」「アデもですよ」オルヴァンも見る。確かにアデマールの頬も赤い。いつもより少し柔らかい表情。黒い髪。笑った口元。オルヴァンの目がゆっくり細くなる。アデマールが聞く。「何?」「格好いいなと思って」「今?」「今です」「酒飲んでるだけだぞ」「それでもです」アデマールの口元が緩む。「オルも可愛い」「僕も酒を飲んでいるだけです」「それでも」二人で笑った。朝の漁師が向かいから声を掛ける。「どうだ! 寒いのも悪くねえだろ!」アデマールが熱い杯を上げた。「ちょっと分かってきた!」オルヴァンも頷く。「温かいものが、とてもおいしいです!」漁師が豪快に笑った。「まだ半分だ!」アデマールとオルヴァンは顔を見合わせる。「半分?」「何でしょう」答えは教えてもらえなかった。****宴会が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。小屋を出た瞬間。冷たい海風。「寒っ」「寒いです」二人とも笑った。アデマールが外套を開く。オルヴァンが当然のように寄る。今度は聞かない。肩を密着させる。アデマールが腕を回す。「近い?」「もっとでもいいです」「じゃあもっと」さらに寄る。酒で身体は暖かい。それでも、くっついた方が暖かい。宿までの道をゆっくり歩いた。****部屋へ入る。扉を閉める。暖炉にはすでに火が入っていた。外套を脱ぐ。手袋も外す。風呂で冷えた身体を温める。部屋へ戻る頃には、もう寒くなかった。オルヴァンが寝台の端へ座る。アデマールも隣へ座った。肩が触れる。そのまま離れない。アデマールが見る。「もう寒くないだろ」「はい」オルヴァンもアデマールを見る。少し間があった。「……離れます?」「嫌」返事が早い。オルヴァンの目元が緩む。「僕もです」アデマールが腰を抱いた。オルヴァンも自然に身体を寄せる。頬へ触れる。宴会の時より赤みは薄くなっている。それでもまだ少し暖かい。「さっき、可愛かった」「アデも格好よかったです」「地引網?」「それも」「酒?」「それもです」オルヴァンが笑う。アデマールも笑う。唇が重なった。軽く。一度離れる。もう一度。今度は少し長い。オルヴァンの手がアデマールの胸へ触れる。「暖かいです」「オルも」また近づく。互いの熱が混ざる。今日一日、寒いと言うたびにくっついた。手を握った。肩を寄せた。外套へ入った。熱いものを一緒に食べた。今はもう、寒さを理由にする必要はなかった。それでも離れたくない。オルヴァンがアデマールの首へ腕を回す。「もう少し近くに行ってもいいですか」「来て」アデマールが抱き寄せる。唇が重なる。オルヴァンも自分から深く求めた。服が少しずつ緩む。肌へ触れる。アデマールの手が背中をゆっくり撫でる。オルヴァンも胸から肩へ手を滑らせた。「暖かいですね」「うん」「幸せです」「俺も」二人は笑って、また唇を重ねた。そのまま、互いの体温を確かめるように身体を重ねた。****夜更け。外では海風が鳴っている。窓の向こうは寒い。けれど毛布の中は暖かかった。オルヴァンはアデマールの胸へ頬を寄せている。アデマールが背中を撫でる。「朝の人、言ってたな」「寒いのも悪いことばかりではない、と」「うん」オルヴァンが少しだけ顔を上げた。「分かりました」「何がよかった?」「熱いスープも、お酒も、お魚もおいしかったです」「うん」「地引網も楽しかったです」「オル、ずっとわっしょいって言ってた」「皆さん言っていたでしょう」少しむくれる。アデマールが笑う。オルヴァンもすぐ笑った。そして、また胸へ頬を戻す。「でも、一番はこれですね」「これ?」「アデが暖かいことです」アデマールの腕が少し強くなる。オルヴァンもさらに身体を寄せた。「寒いって、いいですね」アデマールが髪へ口づける。「うん。オルがずっとくっついてくれるし」「寒くなくても、くっつきますよ」「じゃあもっといい」オルヴァンが笑った。毛布の中で、もう一度指を絡める。外の風は冷たいままだった。二人には、それでよかった。****翌朝。港へ出ると、昨日の漁師たちがもう働いていた。朝の漁師が二人を見つける。「おう!」小さな包みを投げてくる。アデマールが受け取った。「何?」「昨日の魚の燻製だ。道で食え」「いいの?」「仲間だろ」オルヴァンが頭を下げる。「ありがとうございます」「また来いよ。次も引かせてやる」アデマールが笑う。「今度も大物いる?」「それは海に聞け!」オルヴァンも笑った。「また『わっしょい』しましょう」「オル、気に入った?」「楽しかったですから」二人は港の人々へ手を振った。それから並んで町を出る。海風は今日も冷たい。けれど、二人の肩は最初から近かった。