第9話 花の道をひらけ
第9話 花の道をひらけ
大聖堂へ続く坂道が、白い花で埋まっていた。正確には花そのものではない。白い布と紙で作られた花飾りが窓辺や軒先に並び、石畳には本物の花びらが細長い道を描いている。坂の上には、白い石造りの大聖堂がそびえていた。正面の壁を埋める大きな円窓。その下には、金の細線を持つ白いミュレシアを抱いた女神像がある。オルヴァンが足を止めた。「綺麗ですね」「でかいなあ」「感想、それですか?」「綺麗で、でかい」「増えましたね」アデマールが笑う。二人は坂を上った。通りには巡礼者が多い。杖を持った老人、家族連れ、旅装の若者。露店では蝋燭や花飾り、焼いた栗、香草入りの平たいパンが売られている。アデマールが香ばしい匂いの方へ目を向けた。「オル」「大聖堂が先です」「まだ何も言ってない」「パンでしょう?」「分かる?」「夫ですから」アデマールは素直に大聖堂へ向かった。石段を上り、重い扉をくぐると、町の騒がしさが遠くなった。高い天井。長く並ぶ石柱。色硝子を通った光が床へ落ち、祭壇の奥には白と金のミュレシアが描かれている。祈る人々の邪魔にならないよう、二人も声を落とした。オルヴァンは壁画や彫刻を眺めながらゆっくり進み、アデマールも隣を離れない。祭壇の前には小さな灯りが幾つも揺れていた。二人も蝋燭を一本ずつ受け取り、火を灯した。アデマールが隣へ小声で尋ねる。「何お願いした?」「言ったら駄目でしょう」「そうなの?」「僕は言いません」「じゃあ俺も内緒」「同じことだったりして」「それなら叶いそうだな」白い長手袋と黒い革手袋が、そっと触れた。そのまま二人は少しだけ並んで座った。大聖堂を出ると、アデマールは真っすぐ露店へ向かった。「今度こそ」「はいはい」香草と羊乳チーズを挟んだ平たいパンを一枚ずつ買う。さらに焼き栗、柑橘の皮を砂糖で煮た菓子。昼には巡礼宿の食堂へ入り、豆と塩漬け肉の濃い煮込みを頼んだ。オルヴァンが黒パンを浸す。「巡礼する人はよく歩くでしょう。だから腹持ちがいい料理が多いんでしょうね」「俺、巡礼向いてるかも」「食事だけで決めないでください」窓の外を、祭りの警備をする衛兵たちが通った。白い紐を通りの脇へ張り、露店へ少しずつ位置を直すよう頼んでいる。先頭にいるのは、日に焼けた四十代ほどの男だった。地図を片手に、次々と指示を出している。「果物屋は半歩壁側へ。そこの角は空けておけ。人が詰まったら南路地へ流す」「去年も言われたよ」「なら今年は一回で動いてくれ」果物屋の女主人が笑いながら台を動かした。男も笑う。オルヴァンがその様子を見る。「かなり人が増えるみたいですね」食堂の主人が皿を置いた。「今日は花の行列だからね。夕方にはあの坂が人でいっぱいになるよ」「何をするんです?」「大聖堂から花車が下りる。昔からの祭りさ。最後は川の広場で花を配る」アデマールが窓の外を見る。「見ていく?」「もちろんです」****午後になると、町は朝よりさらに賑やかになった。大聖堂前の広場には、大きな花車が用意されている。太い木の車輪が四つ。その上に白い布を張った高い台が組まれ、何百という花で巨大なミュレシアが形作られていた。花車の前後には太い綱が取り付けられ、揃いの上着を着た男たちが引く準備をしている。坂道なので、後ろの者は綱を引いて速度を抑えるらしい。通りの両側には見物人が並んでいた。子どもたちは前へ出たがり、親に引き戻されている。昼に見た衛兵の男が、通りの中央で声を張った。「花びらの線より前へ出るな! 子どもは必ず大人と一緒に!」アデマールとオルヴァンも人垣の後ろにいた。男が近くまで来たところで、オルヴァンが声を掛ける。「大変ですね」「祭りの日だけは、町の人口が倍になった気分だ」胸元には衛兵隊長を示す徽章がある。「ラザールだ。見物するなら、あの角よりこっちがいい。向こうは行列が曲がるから詰まりやすい」「ありがとうございます」ラザールはもう次の場所へ向かった。アデマールが感心したように言う。「全部覚えてんのかな」「道だけじゃなく、お店の位置まで覚えていそうですね」長い角笛が鳴った。大聖堂の扉が開き、人々が静かになる。白い衣を着た聖職者たちが石段を下り、その後ろから花を持った子どもたちが続く。最後に花車が動き始めた。前の綱を引く者たちがゆっくり歩き、後ろの組が速度を抑える。人々は花びらを撒き、道の両側から声を掛けた。オルヴァンが目を細める。「いいですね」「うん」花車が二人の前を通った。巨大な白い花が、夕方の光を受けて揺れる。その時、乾いた音がした。ぱきん、と小さな音。続いて、花車の後ろから怒鳴り声が上がった。「留め木が折れた!」後方の綱が一気に緩み、花車が前へ押し出される。前の引き手たちが振り返った。「止めろ!」全員が綱を引く。それでも坂の上で勢いのついた車体は止まらない。男が一人、石畳へ倒れた。花車が加速した。人垣から悲鳴が上がる。「走るな!」ラザールの声が通りへ響いた。「壁側へ寄れ! 前の者から南路地へ入れ!」衛兵たちがすぐ動く。けれど、前方の広場にはまだ大勢いた。このまま花車が下れば、行列の後ろへ追いつく。アデマールが人垣から出た。オルヴァンも周囲を見回す。坂、花車、前方の行列。右側には狭い菓子通り。左には大聖堂の回廊へ抜ける門があり、今は閉じていた。オルヴァンがラザールを呼ぶ。「ラザールさん! 左の門、開けられますか?」「開く!」「広場の人をそちらへ抜けば、坂の正面が空きます!」ラザールはすぐ意図を理解した。「回廊門を開けろ! 第三班、広場を左へ流せ!」衛兵二人が走る。オルヴァンは続けた。「右の菓子通りは止めてください。あそこへ両側から入ると詰まります」「聞いたな! 右は閉じろ!」ラザール自身が坂を下る。オルヴァンも広場へ走った。「走らないでください! 前から順番に左へ!」声を聞いた衛兵たちが同じ指示を繰り返す。閉じていた回廊門が開き、人の流れが変わった。広場中央に空間ができ始める。その間にも花車は迫っていた。アデマールは坂の中央へ出る。後ろの綱が石畳を蛇のように跳ねている。まずそれを掴んだ。「うおっ」腕が引かれ、靴底が石畳を滑る。花車は人が十人以上で扱う大きさだった。坂の勢いまで加わっている。前の引き手たちも綱を握り続けていたが、引きずられ始める。花車の責任者が叫んだ。「一気に止めるな! 右の車輪が浮いてる!」アデマールが車輪を見る。石畳の窪みへ片輪が乗り上げ、車体が少し傾いている。ここで急に止めれば、花車そのものが横倒しになる。「どうすりゃいい!」「左へ寄せろ! 下の水場へ逃がす!」坂の先には、大きな石造りの水場がある。普段は馬や巡礼者が使う広い場所で、その前だけ人が少ない。アデマールは綱を握ったまま走った。力任せに引き戻さず、横へ角度をつける。前の引き手が理解する。「左だ! 左へ引け!」男たちが一斉に動く。花車の向きが少し変わった。それでも速い。アデマールが綱を腰の横へ回し、両足を踏ん張る。石畳が靴の下で削れた。「アデ!」広場からオルヴァンの声が届く。アデマールが見る。オルヴァンは既に人を左の回廊へ流し終えつつあり、正面が空いている。「そのまま!」花車が広場へ入った。アデマールがさらに綱を引き、前方の引き手も全員が身体を傾ける。速度が落ちる。花車は水場の前へ向きを変え、最後には石造りの縁へ車輪を軽く当てて止まった。大きな花が揺れ、白い花びらが何枚も落ちた。それだけだった。数秒遅れて、広場のあちこちから息を吐く音が聞こえた。****「怪我人を先に!」ラザールの声で、皆がまた動き始めた。倒れた引き手の男は腕と膝を擦りむいていたが、自分で座れている。オルヴァンが状態を確かめる。「頭は打っていませんか?」「大丈夫だ。転んだだけだ」「膝を見せてください」傷を洗い、治癒を重ねる。周囲では衛兵たちが人を数え、親とはぐれた子どもを探し、露店の主人たちが通路を空けている。ラザールは部下から次々と報告を受けた。「重傷者なし!」「回廊側も全員通りました!」「迷子が二人、親を確認中です!」ラザールはようやく大きく息を吐いた。花車の責任者が折れた留め木を持ってきた。「すまん。後ろの制動棒を押さえる留め木が割れた」「今は原因より人だ。車は動かすな」ラザールは広場を見渡す。泣いている子どもを母親が抱いている。老人は壁際の椅子へ座らされ、水を飲んでいた。少しずつ、人々の声が戻ってくる。オルヴァンが治療を終えて立ち上がる。ラザールが近づいた。「助かった」「衛兵の方がすぐ人を流してくれたからです」ラザールは苦笑した。「毎年、祭りの前に『道を空けろ』って百回言ってるからな。今日ほど役に立った年はない」アデマールも戻ってきた。黒い服には石畳の埃がついている。ラザールがその肩越しに花車を見る。「あんたも、よくあれを押さえたな」「みんなで引いたから」「最後、お前一人だけ地面削ってたぞ」アデマールは靴の裏を見る。「ほんとだ」オルヴァンが眉を寄せる。「足、大丈夫ですか?」「平気」「後で見ます」「はい」花車の近くでは、祭りの関係者たちが相談を始めていた。このまま修理して行列を続けるか、今日は中止するか。やがて、年配の聖職者が花車へ近づいた。巨大な花飾りを見上げてから、台の上に載っていた小さな花籠を一つ手に取る。「車がなくても、花は運べます」周囲の者が見る。聖職者は花籠を近くの子どもへ渡した。「歩きましょう」別の者も花籠を取る。引き手だった男たちも取る。花車いっぱいに積まれていた白い花が、人の腕へ移っていった。ラザールが笑う。「こっちの方が警備は楽だな」部下が吹き出す。「隊長、それ言います?」「今日は言わせろ」やがて、止まっていた行列がもう一度動き始めた。今度は大きな車輪の音がしない。子どもも、大人も、聖職者も、町の人も花を持って歩いていく。見物人から拍手が起こった。オルヴァンがその光景を見つめる。「綺麗ですね」アデマールも隣へ立った。「うん」今度はちゃんと行列を見ていた。****行列の終点は、川沿いの大きな広場だった。夕暮れになると、運ばれてきた白い花が長机へ並べられ、一輪ずつ人々へ配られた。アデマールとオルヴァンも一輪ずつ受け取る。ミュレシアそのものではなく、この地方で育つ小さな白い野花だった。二人は川沿いを歩く。祭りは少し予定を変えただけで続いていた。串焼き、豆を潰して香草と揚げたもの、蜂蜜を塗った薄焼き菓子。楽師たちも演奏を始めている。「アデ」オルヴァンが屋台を指した。「今度こそ食べ歩きしましょう」「朝から結構食ってるけどな」「事故でお腹が空きました」「俺も」薄焼き菓子を二つ買い、川辺の石段へ座って食べる。少しして、ラザールが通りかかった。もう兜を脱いでいるが、それでも祭りの人の流れを目で追っていた。「楽しんでるか」「はい」オルヴァンが答える。ラザールは手に持った小さな木札を二人へ見せた。「迷子、全員親元へ戻った。怪我人も軽傷だけ。今日はそれで上出来だ」「よかったな」「ああ」ラザールは川の向こうを見る。「子どもの頃、俺も親父に肩車されてこの祭りを見た。自分が警備する側になってからは、子どもが怖い思いをする祭りにはしたくないと思ってる」オルヴァンが微笑む。「来年も大丈夫ですね」「来年は花車の留め具を三回確認する」ラザールが即答した。アデマールが笑う。「そこ大事だな」「一番大事だ」ラザールは二人へ手を上げ、また人混みへ戻っていった。オルヴァンはその背中を見送る。「格好いい人でしたね」「うん」アデマールが菓子の残りを食べる。「オルも格好よかったよ」「ありがとうございます」「人があんなにいるのに、よく道分かったな」「最初にラザールさんが教えてくれたでしょう。あの角は詰まりやすいって」「覚えてたんだ」「見ながら歩いていましたから」オルヴァンは少し得意そうだった。アデマールがその肩へ腕を回す。「やっぱ俺の夫、賢いな」「アデも格好よかったです」「花車止めたとこ?」「はい。言われた通り、無理に止めなかったところも」「そこ褒めるの好きだな、オル」「アデは力が強いのに、ちゃんと人の話を聞くでしょう。僕、そういうところも好きです」アデマールが黙った。オルヴァンが首を傾げる。「どうしました?」「今すぐキスしたい」「夜まで待ってください」「長い」「大聖堂にも、もう一度行きたいですから」「じゃあ我慢する」アデマールはそう言いながら、肩を抱く腕だけは少し強くした。****夜。大聖堂前の坂道には、小さな灯りが並んでいた。昼に撒かれた花びらは端へ寄せられ、石畳の中央にはまた人が歩ける道ができている。二人はもう一度、大聖堂へ向かった。昼間より静かだった。観光客も巡礼者も減り、祭壇の灯りだけが柔らかく揺れている。朝に並べた二本の蝋燭は、もう短くなっていた。アデマールが小声で言う。「朝のお願い、まだ内緒?」「内緒です」「俺も」「同じだったらどうします?」「嬉しい」オルヴァンが笑う。二人はしばらく並んで座り、それ以上は話さなかった。外へ出る。大聖堂の石段の上から町を見ると、祭りの灯りが川まで続いていた。オルヴァンがアデマールの腕へ寄る。「今日、怖かったですか?」「花車?」「はい」「ちょっとな。ひっくり返したらまずいって言われた時」「僕も、人が走り出した時が一番怖かったです」アデマールが手を差し出す。オルヴァンが取る。黒い革手袋と白い長手袋が重なった。「誰も大きな怪我しなくてよかったな」「はい」少しだけ町を眺めた。やがて、オルヴァンがアデマールを見る。「アデ」「ん?」「さっき、キスしたいって言ってましたね」「覚えてた?」「もちろんです」オルヴァンが少し背伸びをした。唇が触れる。短く離れる。アデマールが笑った。「待った割に短いな」「では、もう一回」今度はオルヴァンから首へ腕を回した。二度目のキスは長かった。アデマールの腕が腰へ回る。離れた時、オルヴァンはまだ腕を解かなかった。「……アデ」「ん?」「今日、すごく格好よかったです」「また言ってくれる?」「花車を止めた時も。子どもが怖がっているのを見て、すぐ前へ出た時も」「オル」「はい?」「それ以上言われると、ここでずっとキスしてるぞ」オルヴァンは少し頬を赤くした。「それでもいいです」「いいの?」もう一度、唇が重なった。今度はアデマールから。腰を抱く腕が強くなり、オルヴァンも首へ回した腕を緩めない。離れたあと、オルヴァンが小さく息を吐いた。「……もう少し」「オル、今日甘えん坊だな」「アデが格好よかったので」「それ、ずるい」アデマールが頬へ、額へ、最後にまた唇へ口づける。石段を下りてきた年配の夫婦が、二人の横を通った。夫の方がちらりと見て笑う。「仲がいいねえ」オルヴァンが少しだけ恥ずかしそうに顔を伏せた。アデマールは堂々と答える。「夫なんで」「そりゃ結構」二人は笑いながら坂を下っていった。オルヴァンがアデマールの胸へ額をつける。「……アデ」「ん?」「宿、戻ります?」「祭りの続きは?」「明日でもできます」「豆を揚げたやつ、食べたいって言ってなかった?」「……それは」オルヴァンが少し迷った。アデマールが笑う。「食ってから帰る?」「買って帰ります」「持ち帰るんだ」「宿で食べます」「俺に抱かれながら?」「それだと食べにくいです」「じゃあ先に食べよう」「はい」オルヴァンも笑った。二人は豆の揚げ物を紙包みで買った。温かいうちに半分ずつ食べながら、宿へ向かう。食べ終わる頃には、人通りの少ない道へ入っていた。アデマールがオルヴァンの腰を抱く。「オル」「はい?」「帰ったら、いっぱい可愛がっていい?」「今日は僕も、そのつもりです」アデマールの足が止まった。オルヴァンが笑う。「どうしました?」「もう一回言って」「宿へ着いてからです」「急ごう」「走りませんよ」「分かってる」それでも歩幅は少しだけ大きくなった。オルヴァンは笑いながら、その腕へぴったり寄り添った。****翌朝。窓から差し込む光で、オルヴァンが目を覚ました。アデマールの腕が腰へ回っている。起きようと少し身体を動かすと、後ろから抱き寄せられた。「まだ早い」「朝ですよ」「知ってる」「祭り、見に行きませんか?」「あと少し」オルヴァンは振り返った。アデマールはまだ眠そうな顔をしている。「昨日、急いで帰ったでしょう」「誰のせい?」「アデのせいです」「オルもそのつもりって言った」「言いました」オルヴァンは笑い、アデマールの頬へキスした。「あと少しだけですよ」「うん」もう一度、腕の中へ収まる。窓の外では、祭り二日目の鐘が鳴り始めていた。