1 【6】
1 【6】
サンダルをはいて庭に出る。声のするほうへ。「おつかれさまです。良かったら休憩していってください」 近くのベンチにお盆を置き、手を休めた人へはおしぼりを渡した。「ありがとうございます。射場さ……いや、もう違うんだった、奥様」 使用人仲間だった花沢に奥様と言われてドキリとする。なんだか気恥ずかしい。「その、これからもよろしくお願いします」「こちらこそ。俺はね、射場さ……奥様のことずうっと好きでしたから、幸せになってもらえて嬉しいです。南雲井さんは金持ちのアルファにしちゃできた人だから、本当に良い人と一緒になったと思うよ」 花沢は「くぅっ」と顔をくしゃくしゃにして、目に溜めた涙を袖で拭う。まるで子供の卒業式を見守る親だ。「大袈裟だなぁ」「そんなことないですよ、親方は隙あらば奥様のこと……」「コラッ! クビになるだろ!」 弟子が会話に入ってくると、花沢は大慌てで怒鳴る。 仲の良い庭師たちの会話は、コントのようで聞いていると楽しい。「みんなしてからかわないでくださいよ」 一緒に笑って、彼らが飲み終わったグラスを回収するとキッチンへ戻った。 英一はワインを開栓するところだった。「一杯だけ乾杯しないかい?」「いいですよ」 シンクにコップを置き、カウンターテーブルへ向かう。「酒はね、嬉しいときに飲むのがおいしいんだ」 彼の口癖だ。だから悲しいときは飲まない、と常々言っていた。「照近さんに」 赤い液体が揺れるグラスがそっと掲げられる。 同居を素直に喜んでくれていると思うと俺も嬉しくなった。 軽くグラスを持ち上げて、乾杯のジェスチャーを交わす。 ワインを飲み込む。 喉の奥がほんのりと温まった。 家政婦時代から彼に誘われて一緒に飲んだり、食事をしたりすることがしばしばあった。 今のような昼飲み自体は珍しいことではないが、ある意味で特別な『最初』だ。「なにかつまみます?」「夕飯もあるからなぁ……。チーズちょっとだけかじろうかな」 冷蔵庫から個包装のクリームチーズを一切れ取り出し、小皿に乗せて小さな二又フォークを添える。 この家には高そうな謎チーズがいくつもあるのに、彼はこのどこでも買えるクリームチーズが好きなようだった。俺も好きだ。「夜、食べたいものありますか?」 ちまちまとチーズの角を削りながら尋ねると、目をぱちくりさせて英一がこちらを見た。「まさか、これから買い出しに行くつもりかい?」「ダメ……ですか?」「ダメじゃないけれど、初日からがんばらないでよ。今夜は外食でどうかな」「わかりました。タクシーの手配しますね。どちらに行きましょうか」「照近さんのおなかは何が食べたいって言ってる?」「どうでしょう……」「じゃあ……ワインの口になったし、《ソル》とかどうかな」 懐かしい店名だ。初めて南雲井邸から連れ出されて訪れたスペイン料理店で、それきり行っていない。「パエリア……!」 人生で初めて食べたパエリア。あの感動は今でも思い出せる。すごく良い匂いがして、噛むたびにじゅんわりと濃い海鮮の味が……。 よだれが出てきて、思い出だけで手元のワインを飲み込んだ。「決まりだね」 目を輝かせた俺を見て、英一はニコニコしている。 物事を決めるのが苦手な俺をいつだって柔らかく受け止め、牽引してくれた。 押し付けがましく感じないのは、彼が人をよく見ていて、本当に相手のことを思って言葉を選んでいるからだろう。 そんな聡いところ、ゆえに垣間見える繊細さが愛おしかった。 ワイングラスとつまみの皿を回収し、溜めた洗い物をはじめる。 その最中も英一はソファからチラチラとこちらを見ていた。何かが気になるらしい。「手伝ってもいいかな?」 気が付くと英一が横に来て、水切りカゴの皿を布巾で拭き始めた。「座っていていいのに」「なんだか、まだキミを雇っているみたいで変な気持ちになるんだよ」「だから皿を拭きたいんですか?」「だってキミ、『家事なんてしなくていい』とは言われたくないでしょう? ならせめて、参加させてくれないかな」「そんなこと……気にすることないですよ」「私の気持ちの問題だから、許してほしいかな。──だが申し訳ないのだけれど、この程度の手伝いが限界だ。家事なんてしたことないから、勝手なことをするとかえってキミを怒らせる気がする」「ええ、その通りです。掃除用具には触らないでくださいね」 この家のあらゆるものが高価だ。大理石のタイルに酸性洗剤でも使おうものなら、英一相手でも思わず殴るかもしれない。「なにかしら……できるようになるよ。洗濯物を畳むとか」「雇われているときから思ってましたけど、変わり者ですよ、英一さんって」「そうかなぁ」「アルファが家事なんてしたら、笑われます」「なんだか母を思い出すね。子供のころに似たような叱られ方をしたよ。だから妻のやることには口を出さないようにしていたんだけどね……」 複数人の足音がして、振り返ると庭師の面々が並んでいた。