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眼鏡はかけていない。しっとりと濡れた髪をタオルで乾かしながら、俺を見て少し驚いたような顔をした。「あれ?」「はい!!」「まだ寝てなかったの?」「あ、その……。おやすみを言ってなかったので」 しどろもどろに答えると、英一はふにゃりと微笑する。「おやすみなさい、照近さん」「お、おやすみなさい」 英一が道を引き返していく。 脱衣所でドライヤーを使う音がした。(この感じ……普通に自分の部屋で寝ていいやつだな……) ホッとしたような、拍子抜けなような、なんとも言えない感覚。 どっとと疲れを感じて、長く息を吐いて立ち上がる。 先に寝させてもらうことにした。 ■ ダンボールだらけの自分の部屋に入ると、ばたんとベッドに倒れた。「初日が……終わった……」 はぁー……と、また溜め息を吐く。 ごろんと仰向けになり、スマホを手に取った。 明日の目覚まし時計をセットする。(英一さんがいつも何時に起きるのか聞いていなかったな……) 俺は四時くらいから朝食の準備をするクセがついているので、彼より遅く起きることはないと思いたい。「あ、薬も飲まないと……」 印をつけておいたダンボールの底からオメガの抑制剤を引っ張り出す。 シートから一粒とりだして水もなしに飲み込んだ。慣れである。 俺はうなじを噛まれたことがなく、思春期のころから毎日抑制剤を飲み続けている。 オメガはアルファからうなじを噛まれて《 αΩ ( ひと ) としてのつがい》にならない限り、不定期に 発情期 ( ヒート ) が来るからだ。 厳密にはうなじを噛まれた後もヒートは来るが、それによるフェロモンを感じるのはうなじを噛んだアルファだけになる。 ヒートというのはオメガにとってもアルファにとっても厄介な習性で、危険な目に遭うオメガや間違いを犯すアルファもいると聞く。 幸い、俺は薬がちゃんと効く体質で、ヒートで苦労したことはなかった。滅多に来ないし、来たとしても周りが気づかないくらい軽い症状で済む。 自分のうなじに触れる。 オメガにとってのうなじはデリケートな部位だ。ゆえに床屋の職人などは触れないよう配慮してくれる場合もある。 俺はいつも自分で髪を切るから、本当に誰にも触られたことがない。元夫にさえも。 古い家ほど、オメガは一人のアルファに尽くすべきだと考えている。 病弱な元夫は、長生きできないと自覚していた。だから、自分が早くに死んだ後、嫁いだオメガが長い余生を孤独に送ることを心配していた。『すぐ死ぬ男に心まで捧げなくていい。俺が死んだら、忘れろ。家のことなんて気にするな。おまえは《運命のつがい》を見つけて幸せになるんだよ』 俺が十八で嫁いだとき、彼は十七だった。 今ならわかる。彼がどれほど達観していたか。 知らない家で暮らすのは不安ばかりで、怖かった。 人のものになった後に生家と連絡を取ることは許されず、さみしかった。 義両親は嫁の在り方、赤子の育て方に厳しかった。 毎晩のように泣いた。 それでもがんばれたのは、当時の夫が彼だったからだろう。 彼も、病魔から与えられる痛みや、奪われていく自由に苦しみ続けていた。 彼が俺の苦しみを哀れむように、俺も彼の苦しみを哀れんだ。 彼と俺の間には、愛とは違う、けれども深い情があった。 死を待つだけの閉じられた世界で、魂を慰め合うような。 長男が生まれてからは、病んだ身体がしんどいからと夜の相手も断られていた。 今思うと、あれは俺のための方便だったのかもしれない。 子供が歩けるくらいになったころ、彼は実家を出ようと言った。大きな病院の近くで暮らしたいからと。 三人暮らしが始まった後も、彼は『自分のことは忘れるように』と口癖のように言っていた。 だが、臨終のときだけは、俺がそばにいるかどうか何度も確認していた。 繰り返し名前を呼ぶから、呼ばれなくなるまで返事をして、手を握っていた。 あの手はきっと、俺に冥土までついてきてほしかった表れだと思う。 でもあの人は──。 雑に寝そべるのをやめて、きちんと布団の中に入った。 こんな日に昔のことを思い出しても仕方がない。 今日のことを振り返ろう。そう思いながら目を閉じた。(緊張したけど、楽しい日だったな) やっぱり、英一といるとのびのびできる。 彼も同じように感じてくれていたら良いのだが。 この大邸宅が自分の居場所という実感はまだない。 ただ、帰る場所はここだと思える。俺を受け入れてくれた英一がいるから。 あのマンションを出て、肩の荷が降りたような安堵を感じている。 元夫を憎んでいたわけでもないはずなのに、過去から離れられて安心するなんて、薄情なものだ。 退去時の何もないマンションの部屋を思い出すと、胸がちくりと痛む。 りりりん。 サイドテーブルのスマホが鳴り、着信を知らせた。 ディスプレイには元義母の蔵乃の名前がある。 夜にかけてくるのはめずらしい。 よほどのことかもしれないと思って、身体を起こして応答した。 スマホを耳に当てると、スピーカーの向こうから荒い息づかいが聞こえる。「射場さん?」 元義母を呼ぶと、しばらくの無言があってやっと返事があった。『お義母さんとは呼んでくれないのね』「……すみません」『いいのよ。もう 他人 ( ひと ) の奥さんだものね』 その通りだ。 あんまり元義母とやりとりしていては──しかもこんなに気まずい空気感では──英一にも気を遣わせてしまう。 彼女を独りにするつもりはないから、うまく付き合えたらと思う。 どうしたらいいだろう。 一度、会いに行ってじっくり話し合うべきだろうか。「あの……」『どうして 幸日 ( ゆきひ ) を捨てたの』「っ……!」 懐かしい名前を聞いて動揺してしまう。 幸日は元夫の名前だ。 射場 幸日。享年三十二歳。 俺を大切にしてくれた人。『面倒を見てくれたアルファに殉じるのが貞淑なオメガのあるべき姿よ。母親から何も教わらなかったの? アバズレ。他のアルファに取り入って楽をしようとするなんて、恥を知りなさい。あなたみたいなオメガは地獄に落ちるんだわ』 一方的にまくしたてられ、ぷつりと電話が切れた。 俺はスマホを耳に当てたまま動けない。 唇が震える。 がらんどうになった 2LDK ( へや ) が頭によぎった。(言われなくても……わかってる) 母は立派なオメガだった。どこに出しても恥ずかしくないよう、俺にきちんとした教育をしてくれた。 だから価値観が変化しつつある現代といえど、自分の選択がオメガとしてどれだけ非常識か理解できる。「ごめんなさい……っ、ごめんなさい……っ」 声を押し殺して泣いた。 蔵乃の言葉が耳元でリフレインする。