第1話 凡才の雄室
第1話 凡才の雄室
「もう一本! 今のは足が滑っただけです!」弥吉が木刀を構え直すと、向かいの源八が眉をひそめた。「遅い。今の踏み込みなら、三度死んでる」「三度も!?」「一度目で首。二度目で脇腹。三度目は、お前がまだ立ってるからだ」「最後だけ雑じゃない?」「来い」「よし!」弥吉は地面を蹴った。大都にある雄室塾。この国では、主君の身近に仕える男子を小姓という。身の回りを整え、取次をし、護衛をし、ときには政務や戦場にも付き従う。その中でも、雄女化によって男の身体のまま子を宿し、主君との間に後継を成すことのできる男子を、雄室と呼んだ。小姓として主君の最も近くに仕えながら、正室や側室と同じく子を成すこともできる男たちである。その雄室を育てる場所が、雄室塾だった。武術。軍略。性愛。化粧。礼法。奉公実務。主君のそばで生きるために必要なものを、一通り叩き込まれる。時代は、鎌町幕府の力が弱まり、各地の大名が互いに勢力を争う頃。雄室塾を卒業した者たちは、幕府や大名家へ仕え、それぞれの主君のすぐそばで生きていく。そして萩森弥吉、二十歳。その雄室塾で、今まさに木刀を弾き飛ばされていた。「うわっ!」木刀が地面を転がる。弥吉も尻餅をついた。源八は木刀を肩へ担いだ。「四度目」「増えた!」「拾え」弥吉は立ち上がった。「もう一回!」「まだやるのか」「一本取るまで」「日が暮れるぞ」「じゃあ急いで負けて」「誰がだ」また打ち込む。今度は三合もった。四合目で足を払われた。「ぐえっ」「五度目」「数えなくていい!」道場の端から笑い声がした。****「弥吉、それ、答えは違うよ。……でも、その考え方は面白いね」今度は軍略の授業だった。宗七が弥吉の答案を覗いている。机の上には、山と川、村、街道を描いた地図。教師が出した課題は、敵軍より少ない兵で峠を守る方法だった。宗七の紙には細かな兵の配置と退路、補給線まで書かれている。弥吉の紙には、『村人に道を変えてもらう』と大きく書いてあった。宗七が指差す。「どうしてこうなったの?」「峠の道、一本しかないだろ」「うん」「じゃあ、別の道作ればいいかなって」「いつ?」「敵来る前」「何人で?」「村のみんなにも手伝ってもらって」宗七が少し笑う。「兵法の課題だよ」「でも村の人、山道詳しいだろ」「それはそうだけど」教師が横から答案を取った。「萩森」「はい」「道一本作るのに何日掛けるつもりだ」「……二日?」「山を舐めるな」「はい」教室が笑った。弥吉は頭を掻く。宗七は自分の答案へ戻りながら言った。「でも、本当に時間があるなら使えるかも」「だろ?」「二日では無理だけど」「そこはもう分かった!」****午後。「弥吉、ちょっと座って」綾之丞に呼ばれた。「何?」「お前さ、可愛いのに色気の出し方が雑」「急に悪口?」「褒めてる」「どこが」「顔」綾之丞は弥吉を椅子へ座らせ、前髪を上げた。鏡の前。弥吉は嫌そうな顔をする。「化粧の授業、もう終わっただろ」「お前は終わってない」「点は取ったよ」「中でしょ」「取れてるじゃん」「志が低い」綾之丞が眉を整える。弥吉が顔をしかめた。「痛い」「動くな」「俺、別に綾みたいに綺麗にならなくても」「俺みたいには無理」「腹立つな!」綾之丞は笑った。長い髪も、整った顔立ちも、姿勢も、全部きれいだった。性愛と化粧では塾でも上位。本人もそれをよく分かっている。「でもお前、元は悪くないんだよ」「元は?」「目、大きいし。笑うと急に可愛くなるし」「男に可愛いって言われてもなあ」「雄室だろ」「そうだけど」「可愛いは武器」綾之丞が少し離れて弥吉を見る。「……やっぱり色気が足りない」「放っといて」****一日の授業が終わる頃。弥吉は自分の成績札を見ていた。武術。中。軍略。中。性愛。中。化粧。中。礼法。中。奉公実務。上。「見事だな」源八が横から覗いた。「何が」「真ん中ばかり」「うるさい」宗七も見る。「奉公実務は上だよ」「そこだけな」綾之丞が笑う。「逆に才能じゃない? こんな綺麗に揃う?」「褒めてないだろ!」三人が笑う。弥吉も笑った。でも、札を畳む手は少しだけゆっくりだった。源八には剣がある。宗七には頭がある。綾之丞には性愛と化粧がある。自分には。奉公実務。それは嬉しい。でも、胸を張って「俺はこれで誰にも負けない」と言えるほどではない。弥吉は札を懐へ入れた。「じゃ、俺ちょっと残る」源八が聞く。「まだ剣やるのか」「うん」「好きだな」「負けっぱなし嫌だし」「明日も負けるぞ」「明日は勝つ!」「無理だ」「言ったな!」源八はそのまま帰っていった。宗七と綾之丞も手を振る。弥吉は一人、道場へ戻った。****夕方。木刀を振る。一回。二回。三回。足を踏み込む。さっき源八に言われたところを直す。腰が浮く。戻す。また振る。「百二十七」数えている途中で、腹が鳴った。「……腹減った」木刀を下ろす。道場の外へ出ると、空は赤くなっていた。山の向こうを見て、弥吉は少しだけ故郷を思い出した。小さな山村。畑。古い家。雨が降ればぬかるむ道。冬になると食べるものが減る。雄室塾へ行きたいと言った時、家にそんな金はなかった。それでも村長が銭を出した。隣の家も。畑しかない家は、米を売った。「弥吉なら、でっかい殿様に仕えられる」「偉くなって、村の道くらい直してくれ」みんな笑って送り出してくれた。弥吉は木刀を肩へ乗せた。「……道だけじゃ足りないよな」戦が続けば、道を直してもまた壊れる。米を作っても兵に持っていかれる。若い男が戦へ取られる。だから。「どうせなら、天下ごと平らかにしたいよな」言ってから、自分で笑った。「でかすぎるか」でも、夢くらいは大きくていい。立派な主に仕える。その人と一緒に戦を減らす。村のみんなが、腹を減らさず暮らせる国にする。そのために雄室になる。弥吉はもう一度木刀を構えた。「よし」踏み込む。今度は少しだけ、足が安定した。****日が落ちた。弥吉は道場を出た。腹が限界だった。食堂へ向かおうとして、裏手の道へ入る。近道だった。塾の端には、普段ほとんど使われていない離れがある。古い植え込み。低い塀。そこを通った時。音がした。がさっ。弥吉が止まる。「……猫?」返事はない。もう一度。枝が揺れた。弥吉は木刀を握り直す。「誰かいる?」ゆっくり近づく。植え込みの向こうに、人がいた。男。高い。着物は汚れている。肩から血が出ていた。壁へ手をついて、どうにか立っている。弥吉と目が合う。男の目が鋭くなる。「……騒ぐな。お前に害を加える気はない」弥吉は男を見る。血。顔色。刀。知らない人間。普通なら、先生を呼ぶべきだ。でも。「その肩」「見るな」「血出てますよ」「分かっている」「分かってるなら座ってください」男が少し眉を寄せた。「何?」「倒れます」「倒れん」言った直後、身体が傾いた。弥吉が慌てて支える。「ほら!」「……」「重っ!」「失礼な奴だな」「怪我人が文句言わない!」弥吉は肩を貸した。男は抵抗しようとしたが、力が入らないらしい。「離れ、入れます?」「なぜ」「傷洗うから」「お前は俺が何者か分からんだろう」「分かりません」「なら警戒しろ」弥吉は男を見る。「俺を斬る元気あります?」男も弥吉を見る。数秒。「……ないな」「じゃあ今は大丈夫です」「随分雑な判断だな」「死にそうな人ほっとく方が嫌なんで」弥吉は男を支え直す。「歩けます?」「歩ける」「じゃあ歩いて」「命令するな」「今だけです」男の口元が、ほんの少し動いた。笑ったのかもしれない。弥吉はまだ知らない男を連れ、離れへ向かった。空には、細い月が出ていた。