第11話 余裕の笑み
第11話 余裕の笑み
「綾之丞、教えて」昼休み。弥吉が真剣な顔で言うと、綾之丞は嫌な予感がした。「何を」「人を喜ばせる方法」「範囲広すぎ」「性愛の方」綾之丞の目が細くなる。隣で飯を食べていた宗七が、さりげなくこちらへ耳を向けた。弥吉は気にしない。「又六さん、いつも余裕あるんだよ」「ああ」「俺ばっかり崩される」「ああ」「悔しい」綾之丞は箸を置いた。「弥吉」「何?」「それ、勝ち負けだと思ってる?」「だって毎回俺が先に余裕なくなるし」「そういうところ、本当に又六さんと似てるね」「何が?」「もういい」宗七が小さく笑った。弥吉は身を乗り出す。「綾之丞、性愛科首席だろ。何かあるだろ?」「あるけど」綾之丞は弥吉の顔を見る。「又六さんを喜ばせたいんだ?」「うん」即答だった。綾之丞の表情が少しだけ変わった。「なんで?」「いつも俺ばっかり教えてもらってるから」「それだけ?」「あと、俺が何かしてもあの人ずっと余裕ある顔してるし。一回くらい驚かせたい」「……なるほどね」綾之丞は口元を緩めた。「じゃあ、まず相手をちゃんと見る」「兼重先生と同じだ」「基本だからね。普段より息が浅くなったとか、声が低くなったとか、触れた時に身体へ力が入ったとか。小さい変化を覚える」弥吉が頷く。「それから?」「相手が反応したことを、すぐ繰り返さない」「なんで?」「待たせる」弥吉の目が少し大きくなる。「おお」「何その顔」「綾之丞、悪い男だな」「今さら?」宗七が横から言う。「弥吉には難しそうだね」「なんでだよ」「反応があったら嬉しくなって、すぐ同じことしそう」「……するかも」「するんだ」綾之丞は笑った。「あと、一番大事なのは、覚えた技を見せることじゃないよ」「じゃあ何?」「又六さん本人を見ること」弥吉は少し黙った。「本人」「他の相手に効いたから、又六さんにも効くとは限らない。逆も同じ」宗七が頷く。「将棋みたいだね」「急に宗七の分野へ持っていくなよ」「相手を見ろって話なら同じでしょう」綾之丞は再び弥吉を見る。「今日の実習でもやってみれば?」「やってみる」「ただし、練習相手と又六さんの反応が同じだと思わないこと」「分かった」弥吉は元気よく頷いた。宗七と綾之丞は目を合わせた。たぶん、分かっていない。****午後の性愛科。弥吉は組んだ塾生の様子を、いつもより意識して見ていた。呼吸。声。目線。自分がどう見えているかより、相手が何を求めているか。途中、一度だけ動きを止める。相手の表情が変わった。弥吉はすぐ続けたくなったが、綾之丞の言葉を思い出す。待つ。少しだけ。それから、相手の反応を見て次へ進む。実習が終わった。兼重がこちらへ来る。「萩森」「はい」「今日は良かったです」弥吉の顔が明るくなる。「ほんとですか?」「前より相手を見ていました」「やった」「ただし」弥吉の笑顔が止まる。「褒められた瞬間に気を抜かない」「はい」「返事だけは立派ですね」「次もやります」兼重は小さく頷いて離れた。綾之丞が向こうから親指を立てる。弥吉も返した。今日は手応えがある。これなら又六にも通じるかもしれない。****夕方。離れへ入るなり、弥吉は言った。「又六さん、今日ちょっと上手くなりました」景房は書き物をしていた手を止めた。「何が」「性愛です」「……そうか」「綾之丞に教えてもらって」筆が止まった。ほんの一瞬。弥吉は気づかない。「それで今日、実習の相手に試したら、兼重先生にも褒められました」景房はゆっくり顔を上げた。笑っている。「それはよかったな」「はい」「藤房に教わって」「はい」「別の男で試したのか」「はい」景房の笑みは崩れない。弥吉は感心した。やっぱり余裕がある。「何です?」「いや」景房は筆を置いた。「熱心で結構だと思ってな」「でしょう?」「大変結構だ」妙に声が静かだった。弥吉は気づかず、景房の前へ座る。「だから今日、又六さんにも試したいんです」「俺に?」「はい」景房はしばらく弥吉を見た。「藤房から教わったことを?」「そうです」「今日の相手にも試したことを?」「そうですけど」景房の笑みが少し深くなった。「……いいだろう」「やった」弥吉は何の疑いもなく笑った。****「又六さん」「何だ」「笑ってますよね」「笑っているな」「ずっと余裕あるなあ」弥吉は悔しそうに言った。さっきから自分なりに又六の様子を見ている。普段より息が少し深い。声もわずかに低い。でも、表情は崩れない。綾之丞に教わった通り、急がない。相手を見る。又六本人を見る。弥吉はそっと距離を縮めた。景房の指が一瞬だけ止まる。見つけた。弥吉の目が輝く。同じことをすぐ繰り返したい。でも我慢する。少し離れる。景房の眉が動いた。「何をしている」「待たせてます」「誰に教わった」「綾之丞」景房の笑顔がまた深くなる。「藤房か」「又六さん、綾之丞のこと気になります?」「かなりな」「やっぱり上手いから?」「……そういうことにしておけ」弥吉は首を傾げた。それより今は補習だ。また相手を見る。少しずつ、景房の余裕が変わっていく。呼吸。指。声。綾之丞の言った通りだった。「あ」弥吉が笑う。「今、余裕なくなりました?」景房が目を細める。「嬉しそうだな」「だって初めて見た」「何を」「又六さんが我慢してるところ」景房はしばらく黙っていた。それから、いつもの落ち着いた笑みを浮かべる。「よく見ていたな」「今日はちゃんと見てます」「そうか」褒められた。弥吉が嬉しくなった、その直後。景房の腕が回る。「え」一気に距離がなくなった。「又六さん?」「よくできた褒美だ」声は笑っている。「え、ちょっと待って。今日は俺が――」「俺は待ったぞ」弥吉の言葉が止まった。景房が耳元で笑う。「随分とな」「それ、綾之丞のやつ根に持ってません?」「何のことだ」「絶対持ってる」景房は答えなかった。****弥吉は途中から、また何も考えられなくなった。昼の実習ではできた。相手を見る。呼吸を読む。自分の余裕を残す。ちゃんとできた。同じように人へ触れられた。自分も相手へ触れた。なのに。又六だと違う。名前を呼ばれるだけで、身体の奥が熱くなる。近づいてくる気配だけで、次を待ってしまう。「弥吉」呼ばれる。「……はい」返事をしただけなのに、声が思ったより頼りない。景房が笑った。「もう余裕がないな」「又六さんが……」「俺が?」「ずるい」「何がだ」「分かんないけど、ずるい」景房はまた笑う。その余裕のある笑顔が悔しい。弥吉は景房の襟元を掴んだ。「今日、俺の方が先に崩したのに」「そうだったな」「なら少しくらい負けた顔してくださいよ」「嫌だ」「大人げない!」「勝負なんだろう?」「又六さん、そういう時だけ俺に合わせる!」景房の笑い声が近い。弥吉もつられて笑った。けれど、その笑いもすぐに息へ変わった。また名前を呼ばれる。今度は、もう返事が続かなかった。****少しして。弥吉は畳へ寝転んだまま、天井を見ていた。隣には景房がいる。「……やっぱり変だ」「またそれか」「変ですよ」「何が」弥吉は腕で目元を隠した。「昼も実習したんです」「知っている」「同じ性愛なのに」景房の目が弥吉へ向く。「又六さん相手だと、全然違う」静かになった。弥吉は腕を下ろす。「なんでだろ」景房は弥吉を見ている。答えはすぐ出せる。だが、それを言っても、この男はまた修行の話へ持っていく気がした。「自分で考えろ」「またそれ?」「考える稽古だ」「性愛まで?」「お前は何でも修行にするんだろう」弥吉は少しむっとした。「又六さんが言ったんじゃないですか」「そうだったか」「そうですよ」景房は笑った。いつもの余裕のある笑み。弥吉はそれを見る。「……でも」「何だ」「今日、一回は崩しましたよね」景房の笑みが止まる。ほんの一瞬。弥吉が指を差した。「今も!」「うるさい」「やっぱり!」嬉しそうに笑う弥吉の手首を、景房が掴む。「弥吉」「はい?」「もう一度、勝負するか」弥吉の笑顔が固まった。「……今日はもう十分勉強しました」「そうか」「その笑い方やめてください」「なぜ」「絶対また俺が負ける顔してる」景房は否定しなかった。