第13話 帰るべき場所
第13話 帰るべき場所
「若君。もう時間がございません」朔の声は低かった。夜の離れ。机の上には、大都周辺の地図と何通もの書状が広がっている。景房は最後の一通を読み終え、静かに置いた。「御所は」「公方様の御病気という触れ込みで保たせておりますが、重臣たちにも動揺が広がっております」「織川は」「討幕派と接触を続けております。御所内にも通じている者がいるかと」朔が数人の名を挙げる。景房の表情は変わらない。「徳山」「静観」「武苗」「兵をまとめ始めました」「上影は」「表向きは公方家支持。ただし、幕府そのものが崩れれば独自に動くでしょう」景房は地図へ目を落とした。鎌町御所。大都。そこから各地へ伸びる街道。「俺が戻れば、織川は動く」「戻らなくても動きます」朔は即答した。景房が顔を上げる。「若君」朔はまっすぐ見返した。「このままでは鎌町幕府が終わります」静かだった。庭から虫の声が聞こえる。遠くでは、まだ起きている塾生たちの笑い声が小さく響いていた。景房は窓の外を見る。「ここは平和だな」「雄室塾ですので」「甚八まで嗅ぎつけた」「はい」「次も偵察で済むとは限らん」朔は答えない。景房は地図を畳んだ。「ここを戦場にする気はない」「尾花殿は、若君を追い出すような方ではございません」「分かっている」「では」景房は机の端へ視線を落とした。小さく畳まれた布。何度も洗われ、少し柔らかくなっている。最初に弥吉が握り飯を包んできた布だった。景房はそれを手に取った。「随分、長居した」朔の口元がわずかに動く。「予定よりは」「笑うな」「笑っておりません」「その顔は笑っている」「失礼いたしました」景房は布を懐へ入れた。それから、まっすぐ朔を見る。「戻る」朔は深く頭を下げた。「承知いたしました」****翌朝。「又六さん、片づけしました?」離れへ入った弥吉は、部屋を見回した。「した」「珍しい」「失礼だな」「だって、いつも使うもの全部出してるじゃないですか」「どこに何があるか分かっている」「片づけできない人の言い訳です」景房は笑った。弥吉はいつものように握り飯を置き、その前へ座る。「今日は剣から?」「休みだ」「また?」「今日は話をしよう」弥吉が少し怪訝そうな顔をした。「性愛の補習?」「違う」「軍略?」「違う」「じゃあ何です?」「普通の話だ」「又六さんから普通の話って言われると逆に怖いな」「どういう意味だ」弥吉は握り飯を一つ取った。「どうぞ」「俺の質問なのに食うのか」「朝飯なんで」「自由だな」景房も一つ取った。しばらく二人で食べる。「弥吉」「はい」「お前は、仕える相手をどうやって決める」弥吉が咀嚼を止めた。飲み込む。「急ですね」「答えろ」「競りなんで、向こうが先に俺を欲しがってくれないと始まらないですけど」「その上でだ」弥吉は少し考えた。「会って、話します」「それだけか」「大事でしょう」「評判のいい大名なら?」「話します」「名門なら」「話します」「公方なら」弥吉が笑った。「俺が公方様に買われるんですか?」「仮の話だ」「だったら同じです」景房の指が止まった。弥吉は気にせず続ける。「偉い家だから立派とは限らないでしょう」「逆は?」「評判悪くても、会ったら違うかもしれない」「では、何を見る」弥吉は少し考えた。「何したい人なのか」「何をしたいか?」「はい」弥吉は膝を抱える。「天下取りたいって人なら、なんで取りたいのか聞きます」「一番偉くなりたいから、と答えたら」「嫌です」「早いな」「だって、そんな人のために村のみんなが金出してくれたわけじゃないし」弥吉は少し笑う。「でも、戦を終わらせたいとか、民が腹減らさなくて済む国にしたいとか。そういう人だったら、一緒にやってみたいです」景房は黙って弥吉を見る。「もし」「はい?」「その男が、お前に身分を偽していたら?」弥吉の眉が上がった。「怒ります」景房の顔が止まる。「怒るのか」「怒るでしょう」「事情があっても?」「事情があるなら聞きます」「聞いたあとは」「その人見て決めます」弥吉は少し不思議そうに景房を見る。「嘘つかれたからって、今まで話したこと全部が嘘になるわけじゃないでしょう」景房は何も言わなかった。「なんでそんなこと聞くんです?」「興味があった」「又六さんが?」「ああ」「変なの」「お前に言われたくない」弥吉が笑った。景房も笑う。「でも」弥吉が言う。「隠してることある人って大変ですよね」景房の視線が止まる。「何だ、急に」「又六さん見てたら思う」弥吉は握り飯を食べながら続けた。「言えないこといっぱいあるでしょう」「……まあな」「話せる時に話してくれたらいいです」「怒るんじゃなかったのか」「怒りますよ」「どっちだ」「怒ってから聞きます」景房は声を出して笑った。「面倒な男だな」「又六さんにだけは言われたくないです」****昼過ぎ。道場では源八と朔が向かい合っていた。朔は木刀を低く持っている。源八は構えたまま動かない。「来られないのですか」朔が聞く。「お前が誘ってる」「どうでしょう」「行かない」朔の目が少し細くなる。「理由は」「俺の後ろに主がいるなら、ここを空けない」「なるほど」「褒めるな」「まだ何も申しておりません」「その顔で分かる」少し離れたところで弥吉が笑った。「源八、朔さんに似てきた」「どこがだ」「面倒くさいところ」「斬るぞ」「ほら怖い」宗七は将棋盤を抱えて待っている。「朔さん、終わったら一局お願いします」朔が源八から目を離さないまま答える。「梅枝殿もお元気ですな」「今日は勝ちます」「毎回そう仰います」「今日は違います」綾之丞が弥吉の隣へ来た。「朔さん、忙しいね」「人気者だから」「俺も人気あるけど」「種類が違うだろ」綾之丞が弥吉を見る。「どういう意味?」「そのまま」「弥吉」「怖い怖い」庭に笑い声が広がった。源八は朔へ食らいつき、宗七は盤を抱えて順番を待ち、綾之丞は髪を直しながら二人へ口を挟む。弥吉はその真ん中にいる。回廊の端で、景房はしばらくその様子を見ていた。隣へ喜庵が立つ。「決められましたか」「ああ」喜庵も庭を見る。「弥吉には」「今夜話す」「そうですか」景房が横目で見る。「止めんのか」「若君のお帰りを止める理由はありませんな」「随分あっさりしている」「寂しい顔でもしてほしいですかな」「いらん」「では、これでよろしい」景房は苦笑した。喜庵は少しだけ声を落とした。「若君」「何だ」「恋に兵法を持ち込むと負けますぞ」景房の眉が寄る。「急に何だ」「最後に申し上げておこうかと」「縁起でもない言い方をするな」「最後とは、ここにおられる間の話です」喜庵が笑う。「弥吉は城ではありません。攻め落とそうとなされますな」景房は庭の弥吉を見る。「……分かっている」「それなら結構」「たぶん」「そこは言い切りなされ」****夜。弥吉はいつものように離れへ来た。「又六さん、明日の朝なんですけど、源八が――」景房の荷を見て、言葉が止まった。部屋は朝よりさらに片づいている。必要なものがまとめられ、すぐ持ち出せるようになっていた。「……どっか行くんですか」「ああ」弥吉は景房を見る。「いつ?」「明日の朝」「明日?」「急ですまん」弥吉は荷へ目を戻した。「どこへ?」「今は言えない」少し静かになる。「……そっか」弥吉は畳へ座った。いつもの位置。景房も向かいへ座る。「怒ったか」「ちょっと」「正直だな」「急すぎるんですよ」「悪い」弥吉は唇を尖らせた。しばらくして、ぽつりと言う。「帰る場所、あるんですね」景房は弥吉を見る。「ああ」「なら、帰らないと」「止めないのか」弥吉が顔を上げた。「止めてほしいんですか?」景房は答えなかった。弥吉も少し待った。「又六さんが帰らなきゃいけないところなら、俺が止めちゃ駄目でしょう」「……そうだな」弥吉は膝の上で手を握った。「でも」「何だ」「明日の朝までは、ここにいるんですよね」「ああ」「じゃあ、まだ又六さんです」景房の口元が少し上がる。「何だ、それは」「俺には又六さんでしょう」弥吉は木刀を取った。「最後まで稽古してください」「最後まで修行か」「途中じゃ気持ち悪いです」「剣も?」「はい」「軍略も?」「はい」「性愛も?」弥吉が一瞬止まった。「……そこも」景房が笑った。「欲張りだな」「雄室なんで」「便利な言葉だ」「又六さんが何でも教えるからでしょう」景房は壁際の木刀を取り、弥吉へ放る。弥吉が受け取った。「外へ出ろ」「今から?」「最後までやるんだろう」弥吉の目が明るくなる。「はい!」二人は庭へ出た。夜風が少し冷たい。弥吉が構える。景房も木刀を上げた。「弥吉」「はい」「俺を見ろ」弥吉は笑った。「見てますよ」「なら来い」弥吉が地面を蹴った。