第14話 また戦場で
第14話 また戦場で
夜が明ける少し前。弥吉は離れの縁側に座っていた。隣には又六。庭はまだ薄暗い。昨夜は剣を振った。軍略の課題も一つ解いた。最後は、言葉より近いところまで互いに触れた。それでも朝は来る。弥吉は膝を抱えた。「眠くないですか」「少しな」「俺も」「寝ればよかっただろう」「最後なのに?」又六が弥吉を見る。弥吉はすぐ付け足した。「ここにいるのが、です」「分かっている」「ならいいです」少し静かになる。弥吉は庭を見る。「又六さん」「何だ」「帰ったら、危ないんですか」又六はすぐには答えなかった。「多少は」「多少」「心配するな」「無理ですよ」「そうか」「そうです」弥吉は唇を尖らせた。「俺、何も知らないし」「知らん方がいいこともある」「それも分かってます」「なら」「分かってるのと、気になるのは別です」又六が笑った。「お前は本当に面倒だな」「昨日も言われました」「何度でも言う」弥吉も少し笑った。そのあと、しばらく誰も話さなかった。****空が白み始める頃、荷を持った朔が来た。「又六殿」弥吉の前だからか、今日はそう呼んだ。「準備は」「できている」朔は弥吉へ頭を下げる。「萩森殿。これまで、お世話になりました」「俺、朔さんにはそんなに何もしてないですよ」「十分です」「そうですか?」「はい」朔はそれ以上説明しなかった。弥吉は少し考えてから、頭を下げ返した。「朔さんも、気をつけて」「ありがとうございます」又六が荷を肩へ掛ける。弥吉の胸の奥が急に詰まった。本当に行く。昨日から分かっていたのに、荷を持った姿を見ると急に現実になる。「門まで行きます」「来なくていい」「行きます」「目立つぞ」「塾の門まででしょう」又六が少し呆れた顔をする。「頑固だな」「知ってるでしょう」「知っている」三人で離れを出た。****朝の雄室塾は静かだった。厨房から湯気が上がり、早起きの塾生が何人か井戸へ向かっている。弥吉は又六の少し後ろを歩いた。途中、道場の前で源八が待っていた。「行くのか」又六が頷く。「ああ」源八は朔を見る。「また稽古できるか」朔は少しだけ考えた。「機会があれば」「そうか」それだけ言って、源八は道を空けた。宗七も来た。手には本を抱えている。「又六さん」「何だ」「一つだけ聞いていいですか」「答えられることなら」「本当に下級武士ですか?」弥吉がぎょっとした。「宗七!」又六の口元が少し上がる。「どう思う」「違うと思ってます」「なら、そのまま考えていろ」宗七は少し笑った。「やっぱり答えないんですね」「悪いな」「いえ。面白いので」綾之丞も遅れて走ってくる。「間に合った?」「何に」「見送り」綾之丞は又六を上から下まで見た。「へえ」「何だ」「弥吉が好きになるの分かるなって」弥吉が固まった。「は?」又六も一瞬黙る。綾之丞は笑った。「冗談」「今それ言う!?」「顔赤いよ」「赤くない!」宗七が横を向いて笑っている。源八まで微妙に口元を動かした。又六だけが、妙に機嫌よさそうだった。「何笑ってるんですか」「いや」「又六さんまで!」朝の静かな庭に、弥吉の声が響いた。****門が近づく。典膳が一人立っていた。弥吉は足を止めそうになった。又六が見つかった。そう思った。典膳は又六を見る。「行くか」「ああ」弥吉の目が大きくなる。知ってる。典膳は朔にも頷いた。「道中、気をつけられよ」「お世話になりました」朔が頭を下げる。弥吉は完全に止まった。「……塾長先生?」典膳が弥吉を見る。「何だ」「又六さんのこと、知ってたんですか」「知っていた」「いつから」「最初からだ」沈黙。弥吉の口が少し開く。「最初から?」「そうだ」「じゃあ俺……」離れへ握り飯を運び。先生に見つからないように廊下を避け。聞かれて「行ってません!」と答え。必死に秘密を守っていた。典膳は全部知っていた。弥吉はゆっくり又六を見る。又六が目を逸らした。「又六さん」「何だ」「知ってました?」「何を」「俺が先生たちに隠してるつもりだったこと」「……まあ」「まあ?」綾之丞が吹き出した。宗七も耐えられなかった。弥吉の顔が赤くなる。「誰か言ってくださいよ!」典膳が平然と答える。「聞かれなかった」「そういう問題ですか!?」「塾の法に反する者なら、とっくに追い出している」「じゃあ喜庵先生も?」典膳は答えなかった。その沈黙で十分だった。弥吉は頭を抱えた。「うわあ……」又六が肩を震わせている。「笑うな!」「すまん」「絶対すまないと思ってない!」「少しは」「少し!」門前に笑いが広がった。典膳だけはいつもの顔だった。「萩森」「はい……」「朝の授業に遅れるな」「今それ言います?」「塾生だからな」弥吉はがっくり肩を落とした。****門の外。ここから先は塾ではない。又六と朔が立っている。弥吉は門の内側にいた。たった数歩なのに、妙に遠く感じる。「じゃあな」又六が言った。弥吉はすぐ返せなかった。「……又六さん」「何だ」「また会えますか」又六の表情が少し変わる。弥吉は笑おうとした。「どっかの戦場とかでもいいんで」又六は弥吉をしばらく見た。「生きていればな」弥吉の眉が寄る。「縁起悪いこと言わないでください」「戦の世だ」「じゃあ生きててください」「お前もな」「俺は卒業します」「そこは決定なんだな」「当たり前でしょう」弥吉は胸を張った。「ちゃんと雄室になります」又六が少し笑う。「そうか」「次会った時、まだ何もできないって思われたくないし」「十分できるだろう」「もっとです」「欲張りだな」「知ってるでしょう」「ああ」又六は一歩近づいた。門を挟んで、弥吉の頭へ手を置く。いつものように少し乱す。「頑張れ、弥吉」弥吉は一瞬だけ目を伏せた。すぐ上げる。「又六さんも」「ああ」手が離れる。又六と朔が歩き出した。弥吉は門のところに立ったまま見送った。振り返るな。そう思ったのに。又六が一度だけ振り返った。弥吉は大きく手を振った。又六も片手を上げる。それから二人の姿は、大都の朝の中へ消えていった。弥吉はしばらくその場に立っていた。やがて、背後から源八が言う。「授業」「あ」典膳にも言われた。弥吉は慌てて振り返る。「やばい!」走り出す。宗七が呆れる。「見送りで遅刻したら格好つかないよ」「分かってる!」綾之丞が笑いながら追う。「顔ひどいけど大丈夫?」「何が!」「寂しそう」弥吉は一瞬だけ黙った。それから走りながら答えた。「寂しいよ!」綾之丞が少し驚く。弥吉は前を向いたまま続ける。「でも授業はある!」宗七が笑った。「弥吉らしいね」「だから急げって!」四人は道場へ走った。****その夜。弥吉は布団に入っても、なかなか眠れなかった。天井を見る。又六の声を思い出す。剣を教えてくれた。話を聞いてくれた。くだらない話でも笑った。自分が触れると、たまに余裕のある顔が崩れた。名前を呼ばれるだけで、妙に胸が熱くなった。他の相手とは違った。ずっと理由が分からなかった。弥吉は布団を鼻まで引き上げた。「……あ」小さな声が漏れる。もう一度考える。離れへ行くのが楽しみだった。会えないと物足りなかった。帰ると聞いた時、胸が詰まった。門の向こうへ消えていく背中を、ずっと見ていたかった。「……俺」弥吉は両手で顔を覆った。「好きだったんだ」口にしたら、急に全部つながった。遅い。綾之丞が聞いたら絶対笑う。宗七も笑う。又六本人に至っては、何度もそれらしいことを言っていた気がする。「……遅すぎるだろ、俺」少しだけ笑った。胸は寂しい。でも、戻ってきてほしいとは思わなかった。又六には帰る場所がある。自分にも、やることがある。弥吉は目を閉じた。「次会ったら」そこまで言って、やめた。何を言うかは、その時決めればいい。****翌朝。弥吉はいつもより早く起きた。顔を洗う。髪を結ぶ。木刀を持つ。鏡の中の自分を見る。昨日と同じ顔だった。「よし」部屋を出る。道場へ向かう廊下には朝日が差し込んでいた。卒業まで、まだやることは山ほどある。