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第15話 あと三十日

戦華の小姓 〜剣も軍略も夜伽も、すべて愛する殿のために〜 — fujossy.jp · All chapters

第15話 あと三十日

「卒業試験まで、あと三十日じゃ」喜庵が言った瞬間、広間の空気が変わった。朝一番。雄室塾の最終学年が集められている。喜庵の後ろには、大きな木札が掛けられていた。そこには墨で、『三十日』とだけ書かれている。「明日になれば二十九日。寝ても減る。飯を食っても減る。恋をしていても減る」何人かが笑った。綾之丞だけが少しむっとする。弥吉が横から小声で言う。「なんで綾之丞が反応するんだよ」「してない」「しただろ」「黙って」喜庵の声が飛ぶ。「そこ。余裕そうじゃな」「すみません!」弥吉が姿勢を正す。喜庵は塾生たちを見回した。「武術、軍略、性愛、化粧、礼法、奉公実務。どれか一つだけ良ければ卒業できる、というものではない」広間が静かになる。「自分が何を武器にするか。そのために何を補うか。残り三十日で決めなされ」弥吉は木札を見た。三十日。短い。今さら源八より剣が強くなるのは無理だ。宗七より軍略ができるようにもならない。綾之丞より性愛や化粧で上へ行くのも無理。なら。弥吉は膝の上で拳を握った。今あるものを、全部使えるようにする。それしかない。喜庵がにやりと笑う。「なお、無理をして倒れた者は、わしが問答無用で寝かせる」源八が眉を寄せた。「稽古中でも?」「当然じゃ」「一日くらいなら」「寝かせる」「半日」「寝かせる」「二刻」「松波」「はい」「寝ろ」広間に笑いが起きた。****授業が終わると、四人はそのまま中庭へ集まった。宗七はすでに紙へ予定を書き込んでいる。綾之丞が覗く。「細かっ」「三十日しかないからね」「朝から夜まで全部決めてるじゃん」「休憩も入ってるよ」「四半刻?」「十分でしょう」「宗七も寝かされた方がいいんじゃない?」源八は木刀を持って立ち上がる。「俺は武術へ行く」弥吉が聞いた。「軍略は?」「夜やる」「性愛は?」「決まった時間にやる」「化粧」「最低限でいい」綾之丞が即座に言った。「駄目」源八が止まる。「何が」「最低限って言う奴の最低限は、大体最低以下なの」「意味が分からん」「明日、俺が見る」「要らん」「見る」「要らん」「卒業したい?」「……」源八が弥吉を見る。「助けろ」「綾之丞の方が正しいと思う」「裏切ったな」「卒業してほしいから」源八は舌打ちしながら道場へ向かった。宗七が予定表へ何か書き足す。弥吉が見る。「何書いた?」「源八、明日、化粧」「お前まで」少し離れたところから源八の声が飛んだ。綾之丞が笑う。「聞こえてるじゃん」「耳いいな」三人で笑った。そのあと、綾之丞が弥吉を見る。「で、お前は?」「全部」「一番駄目な答え来た」「違うって」弥吉は自分の紙を広げた。武術。軍略。性愛。化粧。礼法。奉公実務。全部書いてある。ただし時間は均等ではない。「奉公実務を一番やる。武術と性愛は今のまま落とさない。軍略は宗七に見てもらう。礼法と化粧は……」綾之丞が指を差す。「俺」「お願いします」「素直でよろしい」宗七が紙を見る。「一番を作るんじゃなくて、穴を減らすんだね」「うん」弥吉は少し考えてから言った。「俺、急に何か一つだけすごくなるのは無理だと思う」綾之丞が笑う。「今さら?」「うるさい」「でも、それでいいんじゃない?」弥吉が顔を上げる。綾之丞は自分の髪を整えながら言った。「俺は俺で、性愛と化粧は誰にも負ける気ないし」宗七も頷く。「僕も軍略で落とすつもりはない」「源八は剣だしな」「じゃあ弥吉は?」綾之丞が聞く。弥吉は少し考えた。「……まだ分かんない」「そこは格好よく言おうよ」「分かんないものは分かんないだろ」弥吉は紙を畳んだ。「でも、卒業するまでには、今より使えるようになる」その顔に迷いはなかった。****午後。奉公実務の試験練習では、部屋の中に三つの問題が同時に置かれていた。寝台には発熱した主人役。机には届いたばかりの急書。戸口では使用人役が、「夕刻の客人がすでに到着しております」と告げている。さらに厨房からは、「主人様のお食事はどういたしますか」と声が飛ぶ。弥吉は一瞬だけ全部を見る。主人役の額に触れる。熱が高い。「客人には、体調不良で半刻遅れると伝えてください。急書はここへ。食事は粥に変更。水を多めに」「急書はどうします」「俺が読みます」「主人様の許可は」「緊急印が入ってる。読んで要点だけ伝える」弥吉は封を開いた。内容を読む。領内の橋が増水で落ちた。近隣の村が孤立しかけている。弥吉は主人役を見る。「今、起こします」監督役の教師が聞く。「病人だぞ」「全部じゃなくて、決めてもらうところだけです」弥吉は主人役へ膝をつく。「川の橋が落ちました。村を助けるため、人足と米を出していいですか」主人役が苦しそうに頷く。「分かりました。あとは休んでください」弥吉はすぐ使用人役へ向き直った。「蔵から米。人足は川に詳しい者を優先。客人には事情を伝えて、今日の面会を明日に移せるか聞いて」「断られたら?」「俺が先に会います」「お前が?」「主人を寝かせたいので」教師がじっと弥吉を見る。「主人の代わりに客へ会えるほど、お前に話ができるのか」弥吉は一瞬詰まった。「……そこは」考える。「用件だけ聞きます。判断が必要なら主人に聞く。世間話なら帰ってもらう」教室の端から笑いが漏れた。教師も少しだけ口元を緩める。「乱暴だな」「熱ある人に世間話させる方が乱暴です」「続けろ」「はい」実習終了後。教師は採点紙を見ながら言った。「萩森」「はい」「手際は悪くない」弥吉の顔が明るくなる。「ただし礼法」「あ」「客を追い返すような言い方は改めろ」「はい……」「主人の状態を見て優先順位を変えたところは良い」「ありがとうございます」「急書の扱いも」弥吉は思わず笑った。教師が紙から目を上げる。「そこで気を抜くな」「すみません」でも、足取りは軽かった。****翌日は化粧。その翌日は軍略。さらに次の日は武術。塾のあちこちで、同じような声が飛んでいた。「もう一度!」「そこ違う!」「寝ろ!」「あと一回!」「寝ろと言っておる!」夜遅くまで灯りが消えない。食堂では兵法書を読む塾生が飯を冷たくし、廊下では礼法の歩き方を練習する者が互いにぶつかった。性愛科の実習室でも、兼重の声が容赦なく飛ぶ。「余裕を失っております」「まだあります!」「ありません」「あります!」「言い張る元気だけはありますね」弥吉は息を整えながら、相手を見る。呼吸。指先。表情。自分の気持ちよさに引っ張られすぎない。それでも楽しい時は楽しい。相手が嬉しそうだと、自分も嬉しくなる。兼重が近くで見ていた。「萩森」「はい」「以前より良くなっています」弥吉は嬉しそうに笑う。「本当ですか」「ただし、嬉しくなるとすぐ顔に出る」「そこは直した方がいいですか?」兼重は少し考えた。「必ずしも」「え?」「相手によります」それだけ言って次へ行く。弥吉は少し首を傾げた。綾之丞が横から言う。「そこ、長所でもあるってこと」「そうなの?」「お前が楽しそうだと、相手も嬉しくなる時あるから」「じゃあ直さなくていい?」「出し方は覚えろってこと」「難しいな」「だからあと何日?」弥吉は壁の木札を見る。『二十四日』「減るの早くない?」「毎日言ってるよ、それ」****ある夜。宗七は将棋盤を抱えて、喜庵の部屋へ来た。「先生」「何じゃ」「一局お願いします」喜庵は湯を飲んでいた。「わしとか?」「はい」「誰に聞いた」「先生が強いと」喜庵は少しだけ目を細めた。「余計なことを言う奴がおるのう」宗七はもう盤を置いている。「お願いします」「試験勉強は」「これも勉強です」「都合のいい解釈じゃな」「一局だけ」喜庵は宗七を見る。宗七は真剣だった。「よかろう」向かい合う。駒を並べる。弥吉たちはいない。宗七は一人で来た。「先でよいか?」「はい」喜庵が最初の駒を動かす。対局が始まった。****宗七は強かった。数手で喜庵にも分かった。無駄が少ない。盤面を広く見ている。こちらの狙いにも気づく。罠にも簡単には乗らない。中盤。宗七が攻める。喜庵が受ける。宗七がもう一手。「先生」「何じゃ」「そこ、悪手では?」「そうかの」宗七の目が細くなる。「……誘ってますね」「どうじゃろうな」宗七は長く考えた。正しい手。最も損が少ない手。相手に利益を与えない手。一つずつ潰す。そして駒を置いた。喜庵が笑った。「そこへ来たか」次の一手。宗七の表情が変わる。「……」三手後。宗七の手が止まった。盤を何度見ても、逃げ道がない。「参りました」喜庵が湯を飲む。宗七は盤を見たまま動かなかった。「どこで負けました?」「さあの」「先生」「おぬし、自分で考えるために来たんじゃろ」宗七は眉を寄せる。「考えてます」「なら、わしを見なされ」宗七が顔を上げた。喜庵はいつもの穏やかな顔で座っている。「盤ではなく?」「盤も見る」喜庵は一つ駒を持つ。「じゃが、おぬしは正しい手を探しすぎる」「正しい手を打つのは悪いことですか」「悪くはない」喜庵は駒を戻す。「ただ、相手が何を欲しがっておるか。何を嫌がっておるか。それを置き去りにすると、正しい手を打ちながら負けることもある」宗七は黙った。喜庵は盤の途中を指す。「ここ」宗七が見る。「あの時、わしはおぬしにこの駒を取ってほしかった」「だから悪手に見えた」「そうじゃ」「僕は取らなかった」「うむ」「でも、その次の安全な手を選ばされて、そっちが本命だった」喜庵が笑う。「盤は嘘をつかんが、人は嘘をつく」宗七は盤をじっと見た。「もう一局」「一局だけと言わんかったか」「今のは授業です」「勝手じゃのう」「お願いします」喜庵は笑った。「今日は終わり」宗七が顔を上げる。「先生」「悔しいなら、自分で考えなされ」「……はい」宗七は盤を片づけ始めた。いつもの穏やかな顔だった。ただ、駒を袋へ入れる手だけが少し速かった。****夜。四人は自習室に集まっていた。源八は壁にもたれたまま兵法書を読んでいる。綾之丞は鏡を横へ置き、礼法の文書を暗記していた。宗七は将棋盤の一局を紙へ書き直している。弥吉は自分の採点表を広げた。武術。中。軍略。中。性愛。中。化粧。中。礼法。中。奉公実務。上。「……見事だな」綾之丞が覗き込む。「何が?」「この真ん中の並び」「言うな」「こんな綺麗に揃う?」「俺だって好きで揃えてない!」宗七が顔を上げる。「奉公実務は上じゃない」「一個だけな」源八が本から目を上げた。「落ちなければいい」弥吉が睨む。「慰め方下手だな」「慰めてない」「もっと悪い!」綾之丞が笑う。弥吉も結局笑った。採点表をもう一度見る。真ん中ばかり。でも、これが今の自分だ。ここから三十日で別人にはなれない。なら、一つずつ。弥吉は筆を取った。礼法の横へ丸をつける。「明日、これ」綾之丞が言う。「見るよ」軍略。「宗七」「朝なら」武術。源八を見る。「早朝」「眠い」「ならやめるか」「やる」性愛。綾之丞が笑う。「そこも?」「兼重先生に聞く」「俺じゃないの?」「綾之丞に聞くと変な技増やしそう」「失礼だな」四人の声が夜の自習室に響く。外の廊下には木札が掛かっていた。『二十三日』弥吉はそれを見て、また採点表へ目を戻した。次に会う時、胸を張れる自分でいたい。そのために今やることは、目の前に山ほどある。「よし」筆を持ち直す。「次、礼法」綾之丞がため息をついた。「そこ、俺の担当じゃん」「お願いします」「素直でよろしい」夜はまだ長かった。