第2話 離れの又六さん
第2話 離れの又六さん
男の肩口から滲んだ血を見て、弥吉は眉を寄せた。「これ、結構深いですよ」「掠っただけだ」「掠っただけでそんなに血は出ません」弥吉は男を離れの中へ押し込み、戸を閉めた。離れは普段ほとんど使われていない。畳も古く、棚には空の箱がいくつか積まれていたが、雨風をしのぐには十分だった。男は弥吉を見ながら、少し呆れたように言った。「お前、俺が何者かも知らんだろう」「怪我してる人です」「それだけか」「あと、勝手に雄室塾へ入ってきた訳ありの人」男の眉がわずかに動いた。弥吉は気づかず、棚から布を探す。「追われてるんですか?」「まあ、そんなところだ」「じゃあ余計に見つからない方がいいですね」「……そうだな」弥吉は使えそうな布を見つけると、男の前へ座った。「脱いでください」「随分と迷いがないな」「雄室ですよ、俺。怪我人の着物脱がすくらいで困ってたら仕事になりません」「なるほど」男が上衣をずらす。弥吉は傷を見て、少し息を呑んだ。肩から腕へ斜めに切れている。幸い血は止まりかけていた。「これ、刀ですか」「似たようなものだ」「似たようなものって何です?」「知らない方がいい」「そういう言い方する人、大体やばいことに巻き込まれてますよ」「よく分かっているじゃないか」男が笑った。弥吉は水で布を濡らし、傷の周りについた血を拭った。「痛かったら言ってください」「この程度で騒がん」「強がって傷開いたら、俺が困ります」「なぜお前が困る」「ここで死なれたらもっと困るでしょう」「……確かに」男は素直に座り直した。弥吉は傷へ布を当て、ずれないよう巻いていく。「名前、聞いてもいいですか」男は一拍置いた。「葛木又六」「又六さん」弥吉はすぐそう呼んだ。「俺は萩森弥吉です。塾生です」「見れば分かる」「じゃあ何年目かも分かります?」「そこまでは分からん」「二年目です」弥吉は結び目を締める。「卒業まで、そんなに余裕ないんですよ」「何を焦っている」「全部です」「全部?」「剣も、勉強も、性愛も。どれもそこそこ。雄室って、主人に近いところで何でもやるでしょう。だったら一個くらい、これなら負けないってものが欲しいんです」又六は黙って弥吉を見る。「一人で稽古していたな」「見てたんですか」「音が聞こえた」「恥ずかしいな……」「なぜ」「全然うまくいってなかったから」又六は少し考えてから、弥吉の足元を見た。「踏み込む時、右肩が先に出る癖がある」弥吉が瞬いた。「え?」「腰より肩が先に動く。あれでは相手に次の動きを教えているようなものだ」「……そんなに分かりやすいですか」「分かりやすい」「うわぁ」弥吉は両手で頭を抱えた。又六が笑う。「直したいなら、腰から入れ」「腰から」「立ってみろ」「今ですか?」「聞きたいんだろう」弥吉はすぐ立った。離れの狭い畳の上で構える。又六が自分の怪我など忘れたように姿勢を正した。「足だけ前へ出そうとするな。重心ごと運べ」「こう?」「肩が早い」「これ?」「今度は身体が浮いた」「難しいな……」「もう一度」何度か繰り返すうち、又六が弥吉の腰の位置を指で示した。「そこだ。今の感覚を覚えろ」弥吉は同じ動きをもう一度やる。さっきより身体が軽く前へ出た。「……おお」「少しはましになった」「すごい!」弥吉は振り返った。「又六さん、剣やってたんですか」「多少は」「多少でこれ?」「下級武士でも剣くらい使う」「へえ……」弥吉は感心したまま、もう一度踏み込む。又六はそんな弥吉を眺めていた。「お前は教わったことをすぐ試すんだな」「試さないと忘れるんで」「素直なのか単純なのか分からんな」「そこ褒めてませんよね?」「半分は褒めた」「半分かぁ」****翌朝。弥吉は食堂で握り飯を二つ余分に包んでもらい、懐へ入れた。宗七がそれを見て首を傾げた。「今日、そんなに食べるの?」「腹減るから」「二つも?」「鍛える人は食うんだよ」「昨日まで一つだったけど」「今日から二つ」宗七は少し不思議そうにしたが、それ以上は聞かなかった。弥吉は胸を撫で下ろした。綾之丞には見つからないよう、食堂を出る。あいつに見つかったら絶対に聞かれる。そう思いながら廊下を曲がったところで、喜庵と鉢合わせた。「おはようございます、喜庵先生」「おはよう、弥吉」喜庵の目が弥吉の懐へ向く。「朝からよく食うのう」「育ち盛りなんで」「二十にもなってか」「まだ育つ予定です」「それは楽しみじゃ」喜庵はにこにこしながら、そのまま通り過ぎようとした。弥吉はほっとする。「そういえば」足が止まった。弥吉の背中が強張る。「最近、離れの方へ行くことはあるか?」「い、行ってません!」勢いよく答えた。喜庵が振り返る。「そうか」「はい」「ならよい」そのまま歩いていく。弥吉はしばらく廊下に立ち尽くした。危なかった。もう少し自然に答えればよかった。いや、今のでも十分自然だったはずだ。たぶん。弥吉は懐を押さえ、足早に離れへ向かった。****「危なかったです」離れへ入るなり、弥吉は言った。又六は座ったまま湯を飲んでいた。「何が」「喜庵先生に聞かれました。離れの方へ行ってるかって」「それで?」「行ってませんって言いました」「……そうか」又六が湯呑みを口元へ運ぶ。肩が少し揺れた。弥吉が眉を寄せる。「笑ってます?」「いや」「笑ってますよね」「気のせいだ」「こっちは必死なんですよ」「ありがたいことだ」又六はようやく湯呑みを置いた。弥吉は包みを取り出す。「朝飯持ってきました」「俺の分か」「怪我人は食べないと治らないでしょう」「お前の分では」「俺はまた食堂で食います」又六は握り飯を受け取った。「毎日こうして世話を焼くつもりか」「傷治るまでは」「その後は?」弥吉は少し考えた。「又六さんが行くところ決まるまで?」「随分と面倒見がいいな」「雄室ですから」「誰にでもこうなのか」「困ってたら大体」又六は握り飯を見つめたあと、ふっと笑った。「そうか」****その日の武術稽古。源八と向かい合った弥吉は、昨日までと同じように木刀を構えた。ただ一つ。右肩を先に出さない。腰から。重心ごと。源八が踏み込む。速い。弥吉は受ける。一撃。二撃。三撃。いつもならここで崩される。今日はまだ立っている。源八の目が少し変わった。弥吉は息を吐き、前へ出る。腰から。木刀を振る。源八が半歩下がった。弥吉の木刀が袖を掠める。次の瞬間、弥吉の木刀は弾き飛ばされた。「っ、あー!」床へ転がった木刀を見て、弥吉は悔しそうに叫ぶ。源八は自分の袖を見る。「……昨日と違うな」「分かる?」「何をした」弥吉は得意げになりかけて、慌てて口を閉じた。「自主練」「それだけか」「それだけ!」源八は疑わしそうに弥吉を見たが、木刀を戻した。「もう一本」今度は源八から言った。弥吉の目が輝く。「おう!」****稽古が終わると、弥吉は汗も拭かず離れへ走った。戸を開ける。「又六さん!」「騒ぐな」「昨日のやつ、効きました!」弥吉は満面の笑みだった。「源八が一回下がったんです。あいつ、いつも全然下がらないのに!」「勝ったのか」「負けました!」「……そうか」「でも昨日よりずっと長くやれました!」弥吉は興奮したまま、畳の上で踏み込みを再現する。「ここからこうやったら、身体が前へ出て。俺、今まで足だけで動こうとしてたんですね」又六は黙って聞いている。弥吉が振り返る。「又六さん、もっと教えてください」「俺が?」「はい。剣も、ほかにも。俺、使える雄室になりたいんです」又六は弥吉を見た。朝運ばれてきた握り飯の包みが、部屋の隅に畳んで置かれている。「俺がどんな人間かも知らんのに?」「剣が強くて、怪我してて、訳あり」「それだけだろう」「今はそれで十分です」弥吉は笑った。「嫌なら、ちゃんと嫌って言ってください」又六はしばらく黙っていたが、やがて弥吉の頭へ軽く手を置いた。「分かった」「ほんとですか?」「ああ」「やった!」「ただし、教わるなら途中で投げるな」「投げません」「即答か」「俺、しつこいんで」「それはもう知っている」弥吉が笑う。又六もつられて口元を緩めた。「では、明日からだ」「お願いします、又六さん」弥吉は深く頭を下げた。その声には、もう昨夜初めて会った相手への警戒など少しも残っていなかった。