第4話 真夜中の客
第4話 真夜中の客
夜半。離れの灯りは一つだけ残っていた。又六――桐垣景房は、机の上に広げた紙を見ていた。大都の周辺図。街道。寺社。有力家の屋敷。幕府の詰所。紙の端には、細い筆でいくつもの印が書き込まれている。外から小さな音がした。景房はすぐ立った。戸へ近づく。二度。少し間を置いて、一度。決められた合図だった。景房が戸を開ける。暗がりから男が滑り込んだ。「若君」低い声。男は戸を閉め、膝をついた。柳坂朔兵衛。景房が幼い頃から公方家に仕えている隠密だった。「織川方の忍びが大都へ入りました」景房の表情が変わる。弥吉の前で見せる柔らかさが消えた。「数は」「確認できた者だけで六。ほかにも潜んでおります」「狙いは俺か」「若君の所在を探っているようです。鎌町御所を抜けたところまでは掴まれております」景房は机へ戻った。朔が懐から小さな紙片を取り出す。「徳山家はまだ動きません。武苗も様子見。上影は公方家へ使者を出す準備をしております」「織川だけが早いな」「討幕派の一部と通じております」景房は紙片へ目を落とした。「父上は」「御所に留まっておられます。表向きは御病気ということになっております」「よく保たせている」「長くは持ちません」景房は短く息を吐いた。窓の向こうには、雄室塾の静かな庭が広がっている。夜になると、大都の喧騒もここまでは届かない。朔も同じ方向を見た。「塾長からは」「好きに使えと言われた」「豪胆な方ですな」「俺を匿っていると知れれば面倒になる」「それでも若君を追い出さぬ」「中立を名乗るなら、公方も大名も同じ扱いだそうだ」景房の口元が少し上がる。「大した老人だ」「尾花殿なら若君にも同じことを申されるでしょう」「もう言われた」朔の目がわずかに細くなる。その時。机の端に置かれた小さな包みが目に入った。布で丁寧に畳まれている。「それは」景房が即座に包みへ手を伸ばした。「触るな」朔は一瞬止まった。「まだ何も申しておりません」「朝飯を包んであっただけだ」「左様で」「何だ」「何も」景房は朔を睨んだ。朔は平然としている。「若君が朝餉の包みを大切に畳んでおられるのが、少々珍しく思えただけです」「使える布だから置いてある」「左様でございますか」「その言い方をやめろ」「いつもの話し方でございます」景房は包みを机の端へ押しやった。朔の目が今度は壁際の木刀へ向く。「稽古も?」「塾生に少し教えている」「若君が」「悪いか」「いえ。随分と楽しそうでございますな」景房は黙った。朔は景房の様子を静かに見ている。幼い頃から、こんなふうに何も考えず他人と過ごす景房を見る機会は少なかった。公方家嫡男。それだけで、近づく者の目には欲が混じる。家柄。出世。婚姻。金。景房自身を見て話す者は、そう多くなかった。「……楽しそうに見えるか」「はい」景房は窓の外へ目を向けた。「そうか」朔はそれ以上何も言わなかった。少しして景房が紙片を折る。「織川の忍びは追え。ただし塾の中へ誘うな」「承知」「こちらの居場所を掴まれる前に、目を別へ向けさせろ」「では、そのように」朔が立ち上がる。戸へ向かいかけたところで、景房が呼び止めた。「朔」「は」「明日の朝まで、この辺りへ残れ」朔が振り返る。「何かございますか」景房は少し考えた。「塾生が一人、朝早く来る」「護衛が必要ですか」「必要なら俺がやる」「では、私は離れております」「そうしろ」朔の口元がほんのわずかに緩んだ。「承知いたしました」****翌朝。弥吉はいつものように離れへやって来た。片手に握り飯。もう片方には木刀。「おはようございます」「早いな」「又六さんが朝からやれって言ったんでしょう」「昨日のお前が勝手に決めた」「細かいこと言わない」弥吉は握り飯を置いた。景房は昨日までと変わらない様子で座っている。弥吉が木刀を壁へ立てかけたところで、ふと部屋の中を見回した。「昨日、誰か来ました?」景房の手が一瞬止まる。「どうしてそう思う」「庭に足跡が増えてたから」景房が弥吉を見る。「よく気づいたな」「奉公実務、これでも得意なんです」弥吉は少し得意げだった。「誰か来たんですか」「知り合いが寄った」「こんな夜中に?」「訳ありの人間には、訳ありの知り合いがいる」「なるほど」弥吉はすぐ納得した。景房の方が拍子抜けする。「それで終わりか」「何がです?」「もっと聞くだろう」「又六さん、言いたくないことは言わないでしょう」「……まあな」「じゃあ俺が聞いても仕方ないです」弥吉は木刀を手に取った。「それより稽古」景房は少しだけ笑った。「お前は本当に切り替えが早いな」「時間もったいないんで」「構えろ」「はい!」弥吉が庭へ出る。景房も木刀を持って続く。少し離れた屋根の陰から、朔が二人を見ていた。弥吉が景房へ勢いよく打ち込む。あっさり払われる。「うわっ」「腕だけで振るな」「今の結構よかったでしょう!」「どこがだ」「勢い」「勢いだけなら猪でもある」「ひどいな!」景房が笑う。朔はしばらくそれを見ていた。「……あれが」小さく呟く。誰にも聞こえない声だった。****昼。軍略の授業が終わると、宗七が弥吉の机へやって来た。「最近、面白いね」「何が?」「君の答え」弥吉は答案をひっくり返す。「今日も点低かったけど」「点の話じゃないよ」宗七が隣へ座った。今日の課題は、山城を攻める敵を少数で食い止める方法。弥吉の答案には、敵軍そのものを攻める案より、周辺の村へ人を回し、道や井戸の情報を先に集める案が多く書かれていた。「この辺。前なら書かなかった」「ちょっと考え方変えてみた」「誰かに教わった?」弥吉の肩がわずかに跳ねた。宗七はそれを見逃さなかった。「いるんだ」「何が」「教えてくれる人」「……まあ」「先生?」「違う」宗七は少し考えた。「塾生?」「それも違う」「じゃあ誰?」弥吉は答案を奪い返した。「秘密」宗七が目を細める。「へえ」「その顔やめろよ」「僕、何も言ってないけど」「絶対何か考えてる」宗七は笑った。「一つだけ気になる」「何?」「その人、軍略も教えられるの?」「たぶん」「剣も?」「強いよ」「ふうん」宗七は顎に指を当てた。「ずいぶん器用な人だね」弥吉は胸を張る。「又六さん、すごいんだよ」言ってから止まった。宗七も止まる。「……又六さん?」「あ」「名前まで教えてくれるんだ」「今の忘れて」「無理かな」「宗七!」「誰にも言わないよ」宗七は笑いながら自分の席へ戻った。弥吉は机へ突っ伏す。「やった……」少し離れたところから綾之丞が声を飛ばした。「何やったの?」「何でもない!」宗七は答えず、自分の答案を開いた。その口元にはまだ小さな笑みが残っていた。「又六、か」誰にも聞こえないくらいの声で名前を繰り返した。