第7話 落ちない雄室
第7話 落ちない雄室
「今日は稽古、休みですか?」離れへ入ってきた弥吉は、壁際を見た。いつも置いてある木刀がない。又六は縁側に座り、湯を沸かしている。「たまにはいいだろう」「俺、昨日の踏み込み直したかったんですけど」「明日やれ」「珍しいですね」弥吉は又六の隣へ座った。卓上には茶だけでなく、甘い干菓子まで用意されている。弥吉の目が輝いた。「これ食べていいんですか?」「ああ」「やった」一つ取って口へ入れる。すぐ笑った。「うまい」又六はその様子を眺める。「好きだと思った」「なんで分かったんです?」「前に似たものを食っていただろう」弥吉の手が止まった。「覚えてたんですか」「そのくらいは」「又六さん、細かいところ覚えてるなあ」嬉しそうにもう一つ取る。又六は心の中で息を吐いた。ここまではいい。今日はいつもの補習とは違う。剣も軍略も性愛の課題も持ち込ませず、ただ弥吉と過ごすつもりだった。一度身体を重ねれば、自分の気持ちくらい伝わると思っていた。結果は、『すごく勉強になりました!』だった。なら、今度はもっと分かりやすくする。「弥吉」「はい?」「今日は、お前が楽にしていろ」「え?」「何もしなくていい」弥吉が干菓子を持ったまま首を傾げる。「それ、何の修行ですか?」又六の眉が動いた。「修行では――」言いかけて止まる。弥吉は真剣に待っている。又六は言葉を変えた。「……主に任せる稽古だ」弥吉の目が輝いた。「なるほど!」又六は黙った。「そういうのもありますよね。雄室が全部やろうとしたら、主も疲れるかもしれないし」「そうだな」「又六さん、教えるのうまいなあ」「……そうか」今日も出だしから負けている気がした。****又六は方針を変えた。言葉で伝える。弥吉が茶を飲み終えたところで、隣へ寄る。肩が触れる。弥吉は気にせず菓子の残りを見ている。「弥吉」「はい」「お前といると落ち着く」弥吉が又六を見る。「俺もです」又六の目が少し柔らかくなる。「本当か」「はい。又六さん、俺の話ちゃんと聞いてくれるし」「そうか」「教え方もうまいし」そこはいらない。又六は続ける。「会えない日は物足りない」「分かります」今度こそ。「俺も補習ない日は、今日は何しようかなってなります」違う。又六は少し黙った。「お前に触れたいと思う」弥吉は一瞬考えた。「……実技ですか?」又六は天井を仰いだ。「又六さん?」「何でもない」「首痛いんですか」「痛くない」弥吉は心配そうに覗き込んでくる。又六はその額を指で押し返した。「近い」「又六さんが変な格好してるからでしょう」まったく伝わらない。それなのに、弥吉が近づいてくるだけで嬉しい。それがまた腹立たしかった。****数日後。「今度は何だ」喜庵は薬草を選り分けながら聞いた。離れではなく、塾の裏手にある小さな薬草小屋。景房は柱にもたれている。「何だとは何だ」「若君がここへ一人で来る時は、大抵弥吉のことじゃ」「決めつけるな」「違いますかな」景房は答えなかった。喜庵は笑いながら薬草を束ねる。「それで?」「……好意を伝えている」「ほう」「伝わらん」「でしょうな」即答された。景房が喜庵を見る。「なぜ分かる」「弥吉ですからな」「説明になっていない」「では聞きますが、何と仰った」景房は渋々答えた。「一緒にいると落ち着く。会えないと物足りない。触れたい」喜庵の手が止まった。「十分では?」「全部、雄室教育として処理された」喜庵は肩を揺らした。「笑うな」「失礼」まったく反省していない。景房は腕を組む。「今までこんなことはなかった」「でしょうな」「俺が口説いていると分からん男など初めてだ」「良い経験ですな」「良くない」喜庵は束ねた薬草を棚へ置いた。「若君」「何だ」「弥吉は性愛を知らんわけではありません」「知っている」「恋が分からんのでしょう」景房は少し黙った。「同じではないのか」「若君には同じでも、あやつには別物なのでしょうな」喜庵は次の薬草を手に取る。「雄室として誰かを悦ばせることは学んでおります。されることにも慣れておる。だからこそ、そこへ特別な意味を置かん」景房の眉が寄る。「面倒な教育だな」「この塾へ隠れている方のお言葉とは思えませんな」「今だけは言わせろ」喜庵はまた笑った。「なら、技で落とそうとするのをやめてはいかがです」「技ではない」「若君は勝とうとしておられる」景房が黙る。喜庵はそれ以上続けなかった。****その夜。「若君」屋根から降りてきた朔は、いつものように音もなく縁側へ立った。「徳山家の使者が明日、大都へ入ります。織川はまだ――」「朔」「は」「一つ聞く」朔は嫌な予感がした。「何でございましょう」景房は真剣だった。「惚れた男に、自分を男として意識させるにはどうすればいい」朔は黙った。庭の虫が鳴いている。「聞いている」「聞いております」「なら答えろ」「私は敵城への潜入でしたら心得がございます」「同じようなものだろう」「まったく違います」「相手の懐へ入るという点では同じだ」「恋情を城攻めに例える時点で、菊守殿に何か言われませんでしたか」景房が朔を見る。「なぜ知っている」「行かれたのですな」「お前まで笑うな」「笑っておりません」朔は無表情だった。その無表情が余計に腹立たしい。「役に立たんな」「隠密に求める職能をお間違えです」景房はため息をついた。朔は少しだけ景房を見た。「ただ」「何だ」「若君がそこまでお困りになる姿は、初めて拝見いたしました」「嬉しそうに言うな」「少々」「朔」「失礼いたしました」景房が睨む。朔は視線を伏せたが、口元にほんのわずかな笑いが残っていた。****翌日。「又六さん、最近変ですよね」綾之丞の手が止まった。「どう変?」弥吉と綾之丞、宗七の三人は、昼休みに中庭で飯を食べていた。源八は自主稽古へ行っている。弥吉は握り飯を食べながら考える。「やたら甘いものくれたり、何もしなくていいって言ったり、会えないと物足りないとか」綾之丞がゆっくり弥吉を見る。宗七も箸を止めた。「あと、触りたいって」綾之丞が口を開く。「……それで?」「だから、俺に何を教えようとしてるのかなって」綾之丞は目を閉じた。宗七が静かに笑う。「綾之丞、大丈夫?」「ちょっと頭痛い」弥吉が心配そうに覗く。「寝不足?」「お前のせい」「なんで俺?」綾之丞は弥吉の両肩を掴んだ。「弥吉」「何」「その又六さん、お前のこと好きなんじゃないの」弥吉は瞬いた。「俺のことは気に入ってると思うよ」「そういう意味じゃなくて」「師匠として?」「違う」「雄室として?」「それもあるかもしれないけど!」綾之丞が頭を抱える。宗七は笑いを堪えている。弥吉はまだ分からない。「じゃあ何?」綾之丞が弥吉を見る。「……まだそこ?」「何が?」「もういい」「よくないよ。途中でやめるなって」「本人に聞け!」「又六さんに?」「そう!」弥吉は少し考えた。「でも、あの人そういうの言わないんだよな」綾之丞は空を仰いだ。「言ってるよ。たぶん死ぬほど言ってる」「会ったことないのに分かるの?」「分かる!」宗七がとうとう笑った。「弥吉」「何?」「君、軍略の時は時々すごく遠くまで考えるのにね」「急に何の話?」「こっちの話」弥吉は納得できないまま握り飯を食べた。その横で綾之丞が深いため息をつく。「又六さん、苦労してるだろうなあ」「なんで?」「お前を相手にしてるから!」「ひどくない?」宗七はまだ笑っていた。