第8話 守る剣
第8話 守る剣
夕方の稽古が終わる頃、弥吉は道場の裏手で足を止めた。離れへ続く細い道。その先の木立で、枝が一度だけ揺れた。風は弱い。弥吉は少し待った。また動く。人だ。弥吉は木刀を握り直した。ここ数日、又六の周りには妙な気配がある。夜中に誰か来たこともあった。又六本人は「訳ありの知り合い」と言っていたが、追われている人間のところへ来る知り合いが、全員味方とは限らない。弥吉は道場へ戻った。源八が一人、木刀の手入れをしている。「源八」「何だ」「ちょっと来て」「嫌だ」「即答するなよ」「理由を言え」弥吉は一瞬迷った。又六のことは話せない。「言えない」「なら行かん」「頼むって」「お前、最近そればっかりだな」「一回だけ」「前にも聞いた」源八は木刀を置いた。「何がある」「たぶん、誰かいる」「どこに」「離れの方」源八の目が少し鋭くなった。「先生へ言え」「それは困る」「なぜ」弥吉は口をつぐんだ。源八は弥吉の表情を見て、少し考えた。「……お前、あそこに何か隠してるのか」「人聞き悪いな」「当たってるんだな」「頼む。あとで話せるところまで話すから」源八はしばらく黙った。やがて立ち上がる。「一人で行くな」弥吉の顔が明るくなる。「来てくれる?」「お前が勝手に行くからだ」「助かる」「礼はあとで聞く」「怖いな」「行くぞ」二人は道場を出た。****離れへ近づくほど、空気が静かになった。弥吉は前を見る。源八は少し後ろ。「さっき、あの辺で動いた」弥吉が小声で言う。源八は木立を見た。「一人か」「分からない」「分からないのに来たのか」「見に来ないと分からないだろ」「馬鹿」「今言う?」その瞬間。草むらから何かが飛んだ。源八が弥吉の肩を掴み、横へ引く。細い刃が木の幹へ刺さった。「伏せろ!」二人が身を沈める。黒装束の男が一人、木立から飛び出した。短刀。顔の下半分を布で覆っている。弥吉の背筋が冷えた。「忍び?」「下がれ!」源八が前へ出る。木刀で短刀を受ける。一撃。二撃。音が鋭い。源八は強い。道場で見る剣とは違う。相手の腕を狙い、足を止め、離れから遠ざける。弥吉も木刀を構えた。別の音。右。振り向く。もう一人。弥吉のすぐ横を抜け、離れへ走る。「待て!」弥吉が追った。後ろで源八が叫ぶ。「弥吉! そっち行くな!」忍びは速い。弥吉は追いつけない。このままなら離れへ入られる。又六がいる。弥吉は地面を蹴った。前へ回る。忍びの進路へ身体を入れた。「退け」低い声。「嫌だ」「死ぬぞ」「だったら止まれ!」短刀が動く。弥吉は木刀で受けた。重い。腕が痺れる。二撃目。受けきれない。木刀が弾かれる。忍びが前へ出た。弥吉はその腕へ飛びついた。「っ!」「邪魔だ!」身体ごと振り払われる。背中が地面へ落ちる。息が詰まった。それでも起きる。忍びはもう離れへ向いていた。弥吉は足を掴んだ。「行かせない!」「離せ!」蹴りが脇腹へ入る。痛い。手が緩む。それでも離さない。次の瞬間。忍びの身体が横へ吹いた。何が起きたのか、弥吉には見えなかった。短い音。男の短刀が地面へ落ちる。その横に、知らない男が立っていた。細身。派手な構えもない。ただ、忍びの腕を取り、そのまま地面へ押さえ込んでいる。「一人」男が静かに言った。「もう一人は」源八の方を見る。源八も相手を追い詰めていた。忍びが木へ背中をつける。そこへ細身の男が歩いていく。「下がってください」源八が眉を寄せる。「誰だ」「味方です」「信用できるか」「今は十分でしょう」言い終わるより早く、忍びが源八へ斬りかかった。細身の男が動いた。一歩。短刀を持つ手首を外へ流し、肘を折る。身体が崩れる。次の瞬間には、忍びの首筋へ刃が添えられていた。弥吉は息を呑んだ。速い。でも派手じゃない。源八も黙って見ている。「殺すな」別の声がした。離れの戸が開く。又六が立っていた。弥吉の目が大きくなる。「又六さん!」又六は弥吉を見る。脇腹を押さえているのに気づいた瞬間、表情が変わった。「弥吉」すぐこちらへ来る。「どこをやられた」「蹴られただけです」「見せろ」「平気です」又六は弥吉の肩を掴んだ。いつもの余裕がない。「平気かどうかは俺が見る」弥吉は少し驚いた。「……はい」源八が又六を見る。「お前が、弥吉の隠してる奴か」弥吉が固まった。「源八!」「違うのか」「言い方!」又六は一瞬だけ源八を見た。「そうらしい」「又六さんまで!」細身の男が忍びを縛りながら、静かにこちらを見る。弥吉は初めてその顔をまともに見た。「あなたは?」「柳坂朔兵衛」「又六さんの知り合い?」朔が又六を見る。又六も朔を見る。「そうだ」「へえ……」弥吉は素直に頷いた。源八だけが、二人を順番に見た。「知り合いにしては、ずいぶん強いな」朔が縄を締める。「仕事柄です」「何の仕事だ」「人に聞かせる仕事ではありません」源八の目が細くなる。その返事が気に入ったらしい。「俺と一度やれ」弥吉が振り向いた。「今?」「今じゃない」朔も少し意外そうに源八を見る。源八は真剣だった。「さっきの剣、もう一度見たい」「剣ではありません」「同じだ」「違います」「なら教えろ」弥吉が小声で又六に言う。「源八、ああなると長いですよ」「知っている」「なんで?」「見れば分かる」****忍び二人は、塾側へ引き渡された。弥吉は離れの中で、又六に脇腹を見てもらっていた。赤く腫れている。「痛むか」「ちょっと」又六の眉が寄る。「なぜ前へ出た」「又六さんのところに行こうとしてたから」「だから何だ」弥吉は又六を見る。「俺が隠してるんでしょう」「……」「最後まで守らないと」又六は何も言わなかった。弥吉は少し笑う。「でも、源八いて助かりました。俺だけだったら、あの人止められなかった」「お前は」又六の声が低くなる。「勝てないと分かっていて前へ出たのか」「行かせたくなかったから」「死んだらどうする」「その時は困ります」「困るで済むか」又六の声が少し強くなった。弥吉は黙る。又六が怒っているのは分かる。でも、その怒りがいつもと違う。弥吉は少し考えてから言った。「ごめんなさい」又六は弥吉を見た。「次から、もうちょっと上手くやります」「そこじゃない」「でも、又六さんが危ない時に逃げるのは嫌です」又六の表情が止まる。弥吉は続けた。「俺、雄室になるんですよ。守りたい人がいる時に逃げる癖つけたくない」しばらく静かだった。又六はやがて、弥吉の頭へ手を置いた。強く撫でる。「……馬鹿」「また言われた」「今日は何回でも言う」「ひどいな」弥吉が笑う。又六は笑わなかった。そのまま弥吉の頭を撫で続けた。****翌朝。源八は道場にいた。いつもより早い。朔が入ってくる。「本当に来たのか」「約束しましたので」「してないだろ」「松波殿が一方的に決められました」「来たなら同じだ」朔は小さく息を吐いた。「一度だけです」源八が木刀を取る。「十分だ」二人が向かい合う。弥吉は道場の端から見ていた。又六も少し離れた柱にもたれている。「始め」弥吉が勝手に言った。「お前が仕切るのか」源八が睨む。「早くやれよ」朔は構えらしい構えを取らなかった。木刀を低く持つ。源八が一気に間合いを詰める。速い。強い。弥吉なら最初の一撃で押される。朔は受けなかった。半歩ずれる。源八の木刀が空を切る。次の瞬間。源八の手から木刀が落ちた。道場に乾いた音が響く。弥吉は目を見開いた。「……え?」源八自身も動かない。朔の木刀は、源八の脇腹へ軽く添えられている。「もう一度」源八が言った。「一度だけと申しました」「今のは分からなかった」「分からないままでは困りますな」「だからもう一度」朔は源八を見る。しばらくして木刀を戻した。「松波殿」「何だ」「敵を倒すことに意識を置きすぎです」源八の眉が寄る。「剣は敵を倒すものだろう」「我らの剣は、主を生かして帰すためのものです」道場が静かになった。源八は何も言わない。朔は続ける。「敵を追えば主の傍が空く。勝っても主が死ねば、我らの負けです」源八が落ちた木刀を拾う。握り直す。「もう一度」朔が小さく笑った。「聞いておられましたか」「聞いた」「では」「今度は守るつもりでやる」朔の目が少し変わった。「……よろしいでしょう」弥吉は隣の又六を見た。「源八、楽しそうですね」「そうか?」「分かりますよ」又六が弥吉を見る。「人を見るのが上手くなったな」弥吉は少し得意げに笑った。「先生がいいんで」又六も、今度は笑った。