プロローグ-2 「全ては世界、母の手紙」
プロローグ-2 「全ては世界、母の手紙」
【Side:⁇⁇】 『アーサー・ローラン』がその行為に及んだきっかけは、憎しみでしかなかった。 幼少期から青年期までを母子家庭の中で育った彼にとって、母親が世界の全てだった。 決して裕福と呼べる家庭では無かったが、それでも自分を女手一つで育ててくれた母のことを、アーサーは心から尊敬していたし、また、自分もそんな彼女に楽をさせてあげたい一心で必死に勉強した。 例え貧乏だと 虐 ( しいた ) げられようが。 例え片親だといじめられようが。 例え娼婦の子だとなじられようが。 アーサーにとってそれらは雑音でしかなく、家に帰り母の少し疲れた笑顔を見るだけで、全てが報われた気持ちになれた。 彼は幸せだった。 大好きな母がいる。 人生において、それ以外に何が必要だと言うのだろうか。 いや、何も要らない。 そう、本気で思っていた。 あの時までは——。「なあアンタ、知ってるかい?」 路地裏——月明かりとおぼろげな街灯に照らされるその場所で、アーサーは眼下に横たわる『獲物』に向かって、無感情な瞳で笑いながら語りかける。「どうやら今、この街には連続殺人鬼って奴が出没するらしいぜ」 彼は手に持った雑誌のゴシップ記事を眺めながら言うと、どうでも良さそうにそれを放り投げた。 道の脇に流れる水路で、水が跳ねた音がする。「物騒だよなあ。怖いよなあ。俺には全くもって微塵も理解できないよ。『人』を殺すやつの、気持ちってやつがさ」 彼は嘆息する。「なあ——アンタは、何でだと思う?」 その問いに、答える者はいなかった。 否、答えられる者はいなかった。 アーサーがナイフを向ける先にいる女性は、顔を恐怖に歪ませ、ただただ嗚咽を漏らしていた。 彼女は涙と鼻水で 端正 ( たんせい ) な顔をぐしゃぐしゃしながらも、アーサーから逃げようとはしない。 何故か。 単純明快だった。 逃げる為の足も、這う為の腕も——切り落とされていたからだ。 その瞳に、希望はなく。 その体に、未来は無かった。「″人ってやつを″殺したことが無い俺に教えてくれよ。なあ」 女性は、壊れた人形のように首を横に振る。 それは懇願だった。 殺さないで、そう必死に言葉を紡ごうとするが、口は空気を取り入れるだけで用をなさない。 平和な日常が、世界が突然壊れた絶望。 理不尽に、手足を奪われた。 もう戻らない、もう取り返しがつかない。「まあ——アンタに分かるわけがねえか」 アーサーは屈み込み、女性の体にナイフを突き立てる。 ″自身の体が、痛みなく、意識を保ったまま解体されていく″恐怖が、完全に彼女から正常な機能を奪っていた。 それは、彼の持つナイフの性能によるものだった。 『遺物』と呼ばれる、前文明の遺産。それぞれが、超常的で特異な機能を有する。 まるで人形の部品を取り外すかのように、痛みも無く、生きたまま人体を解剖することが出来る——それは彼の持つ遺物『 手に持つ聖母 ( インビジブル・ドア ) 』が持つ機能によるものであった。 アーサーは、ナイフを走らせ、女性の腹部を切り開いていく。肉を掻き分け、内臓を切り分け、子宮が野晒しになる。「ひぃっうぅぅぅあああ」 女性が、声にならない悲鳴をあげた。 目の前で繰り広げられる光景に、思わず目を逸らすが、向いた視線の先には、赤々しい肉塊が横たわっていた。「あっ……ぐっぅ……」 それは、「アンタ、人じゃないもんな。人じゃないやつに、人の気持ちが分かるわけねえもんなあ」 その肉塊は——。「アンタはただの人でなしだよ。分かるか? 人間じゃあないんだよ。だって、アンタ——″自分の子どもが目の前で解体された″ってのに、自分の命の心配をしてるんだもんなあ」 ホント、最低だよなあ。 アーサーはそう吐き捨て、ナイフで女性の子宮を何度も何度も刺す。「こんなもんがあるから、人でなしが、人を、産んじまうんだよなあ」 アーサーの口元が、歪む。 女ってのは、最悪だ。 特に母親なんてのは、吐き気がする。 あいつのように。 母親なんてものが存在するから、更なる憎しみが産まれる。 自分のように。 かつては——。 母が、世界の全てだった。 母にとっても、自分が全てだと思っていた。 当然のように自分を愛してくれていると思っていた。 苦難の中にありながらも、母にとって自分は唯一無二の存在で、救いであり、何者にも変え難い存在なのだと思っていた。 そうでなければ、ならなかったのだ。 無償の愛。無条件の慈しみ。対価なき優しさ。 それが、母親のあるべき姿であると、アーサーは定義する。 母はいつも優しかった。 高熱を出した自分のことを夜通し看病してくれた。 ひもじい冬は、体を寄せ合って 凌 ( しの ) いだ。 けれど—— 今にして思えば、アーサーは、一度も母と手を繋いだ記憶が無かった。 そして、運命のあの日——。 突然の、母の自殺。涙も枯れ果て、心身共にぼろぼろになりながら遺品の整理をしていた時である。 偶然押入れの奥で見つけた、錆び付いたブリキ缶を開いてしまう。 そこに入っていたのは、握り潰されたように、あるいは水に濡れたように、くしゃくしゃになった一通の手紙だった。 閉ざされた暗い記憶。 手が震えていた。 何故か直感していた。 これは、母が自分に宛てた手紙なのだと。 彼は恐る恐るその手紙に目を通す。 書かれていたのは、たった一言。 彼にとっての—— 「こんな子、産まなければよかった」 世界が崩壊した。 その時、彼の全てが、音を立てて崩れ落ちた。 それは呪い。 この世の全ての恨みを孕んだかのような、呪詛の言葉。 母にとって、自分は重荷でしかなかったのだと。 彼女の人生の汚点でしかなかったのだと。 愛されてなどいなかった。 望まれてなどいなかった。 アーサーは、一心不乱に自身の顔を掻き 毟 ( むし ) る。 あの女と少しでも同じ顔をしている自分に、我慢が出来なかった。 再び彼が顔を上げた時——血の涙を流しながら、彼は高らかに笑う。「くははははははははははははなはははっ‼︎‼︎」 世界 ( はは ) を否定し、 世界 ( はは ) を呪い、 世界 ( はは ) を憎んだ。 自分を否定した 母親 ( せかい ) を。 自分を産んだ 母親 ( せかい ) を。 自分を憎んだ 母親 ( せかい ) を。 ——断罪しなければならない。 そして、彼は犯行に及ぶ。 ある日突然手に入れた 遺物 ( ちから ) 。 子どもの母親ばかりを狙った凶行。 目の前で、子どもを 解体 ( ばら ) し、母親は生きたまま子宮を切り刻み、最後には体を肉塊にして放置する。「お前らは、何の為に産む? 世間体の為か? 快楽の為か? 本能か? 望んだのだろう? 臨 ( のぞ ) んだのだろう? ならば何故——自らが産んだ罪を、受け入れないんだ?」 アーサーは、無表情で女性にナイフを突き立てる。 「なあ、なあ、なあ、なあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあなあ——教えてくれよ」 段々と原型が無くなっていく彼女に向かって、アーサーは問い掛ける。 無論、答えは無い。 しかしアーサーは凶行をやめない。 それはまるで、あの日あの時あの母に聞けなかった答えを追い求めるかのように。 何度も何度も何度も何度も何度も。 その手に聖母を握りながら、凶刃を、突き立てる。 やがて——女性が完全に原型を失うと、アーサーはゆっくりと立ち上がった。 その目は、どこか 虚 ( うつろ ) で、おもちゃに飽きた子どものようにつまらなさそうな顔で、彼は辺りを見回す。 無数の、気配がした。 囲まれている——そう、知覚する。 そして、ここに来て急に殺気が伝わってきたという事は、逃げ場は無いのだろうと悟った。 完全に包囲を終えたからこそ、相手に隠す気が無くなったのだ。「アーサー・ローランだな」 声と共に、闇から滲み出るようにして一人の男が姿を現した。 喪服のような真っ黒なスーツに、くたびれたコートを着た中年の男だった。垂れ目がちで、濁った瞳。 気怠 ( けだる ) そうな、けれど只者では無い雰囲気を纏っている。「残念ながら、ここまでだ。もう十分、 聖母 ( ママ ) のおっぱいしゃぶったろう? お前を、逮捕する」 アーサーは、笑った。 絶体絶命の状況の中、確かに笑ったのだ。 まだ自分は、捕まる訳にはいかない。 この世界には未だ、『罪』が蔓延っている。 全てを断罪するまでは。全てを解放しなければ。 突破口は一つ。指揮官である目の前の男を越えての一点突破。 アーサー・ローランは、前へ向かって全力で逃走する。 衝突音をかき消すように、遠くで列車の汽笛が鳴った。