2-1 「赤い月、心の行方と遺物の歪み」
2-1 「赤い月、心の行方と遺物の歪み」
———— 辺りは、すっかり真っ暗でした。 星の無い夜です。 それは、月が完成しているからに他ならず。 空には、大きくてまん丸な月が見えました。 その色は血のように赤く——今日が月に一度の『 紅月 ( べにづき ) 』の日であることを、指し示していました。 古来から、縁起が良くないとされている日です。 何をするにでも、忌避されることが多く。 何か悪いことが起こる。 そんな迷信めいた、しかして確かな空虚さを伴って信仰されている、ある種の漠然とした予感を、わたしはこの時すでに感じていました。 なんだか、もやもやします。 背筋が、もにょもにょする感覚。 決して、先程の出来事に起因するわけではないのでしょうが……。 「び、びっくりして思わず逃げてしまった……」 初対面の方から、いきなりのプロポーズ。もちろん受け入れられるはずもなく、あまりの衝撃と混乱からの錯乱によって、急激に用事を思い出したふりをし、逃げるようにわたしは酒場を後にした次第です。「悪いことをしてしまったかしら……いや」 そもそも、あまりにも脈絡が無さ過ぎますよ。 一目惚れだなんて……。 いきなり……困ります。 そんなに簡単に人のことをす、好きになってよいのでしょうか? いえ、本来はもっと時間を掛けてお互いの理解を深めて至る領域だと存じます。 けれど——。 たぶん、満更でも無いわたしがいました。 幼少期を人の悪意の中で過ごした人間は、愛に飢えると言います。 母からの愛。父からの愛。 当たり前の愛情が抜け落ちた心は、悪意に強くなる一方、人からの好意に打たれ弱くなります。 知らないから。 耐性が無いから。 免疫が欠如しているから。 今のわたしのように。 すぐ心の行方が、迷子になるのです。 さて、 迷子といえばですよ。「ここは何処でしょう……」 混乱のままに、知らない街を走ってしまい、完全に自分の居場所を見失っていました。 遠くの方で、街の中心地の灯りがぼんやりと空を染めています。 随分と遠くへ来てしまったようでした。 幾分乱れた呼吸を整えながら、周囲を見ます。 狭い路地裏でした。 建物と建物の間に存在する、小さな路。舗装こそされているものの、石畳のところどころはめくれ、欠け、隙間から小さな雑草が顔を出しています。 脇には、生活用水路がどぼどぼと音を立てていました。 街灯は、ありません。月が出ていなけれは足元さえおぼつかないでしょう。「ふむぅ……」 ポケットから端末を取り出し、確認します。困った時の機械。わたしのもう一人の相棒。これがあれば、どれだけ方向音痴だろうが、迷子とはおさらばなのです。文明の利器万歳。 どうやら、いつの間にか住宅街に迷い込でいたようで——現在地を確認し、蜘蛛の巣のように複雑な線を辿ります。 どうやら、このまま西に向かって行けば、大通りに出れそうです。 再び歩みを進めようとした所で、『いやー、愉快な奴じゃったのう』 相棒の声が、聞こえました。「久しぶりですね、レーヴァ。随分大人しかったじゃないですか」 それは、頭の中で完結するはずの実体のないやり取りでした。わたしが所有する遺物【 終焉たる救世主 ( レーヴァテイン ) 】に宿る人格たる彼女に、発声器官があるわけではありません。 実際、レーヴァの声はわたしにしか聞こえず、それでも声に出して語り掛けてしまうのは、悪い癖でした。 しかして、最近ではそのスタイルがすっかり馴染んでしまい、改善しようとも思わなくなってきました。 わたしの意志を、レーヴァは 汲 ( く ) んでくれます。『街中では、あまり会話せん方がよいじゃろと思うてな。独り言がもの凄い、とても痛い人になってしまうぞ』「お気遣いありがとうございます。でも、 他人 ( ひと ) の目はあまり気にしませんよ。つまるところ、所詮は、ただの他人ですからね」『人見知りの癖に、そういうところは図太いのう』「余計なお世話です。いたいけな乙女を捕まえて、図太いとか言わないでいただきたい」『乙女て……もう、よい歳じゃろ』「今のわたしは幼女です」『いや、そこは前向きなんかい』「悪いことばかりを見ていては、心が腐りますからね。良いところにも目を向けなければ」『なるほど、殊勝な心掛けじゃな。では——文字通り、前を向くとしようか』「前?」 わたしは、視線を前へと向けます。 生活感溢れる裏路地が、夜へと続いていました。『この先——近くに、″遺物″の気配がする』「まさか——」 こんな街中に? と言い掛けて言葉を飲み込みます。 不思議ではないのです。 ザクセン帝国、ルノル王国、シノノメ連邦、世界の主たる大国。それらが管理、管轄していた遺物の半数が、奪われ、世界中にばら撒かれたのは、わずか一年前のこと。 『結社』と呼ばれる組織の犯行であるとされるその大事件以降、各地で遺物によって引き起こされる事件——通称『遺物の歪み』が、頻発するようになりました。 己が体を幼児化させた遺物を探している身の上として、わたしは独自に遺物の歪みを追っています。「……行きましょう。案内を頼みます、レーヴァ」『うむ』 同じ遺物であるところの彼女には、他の遺物を感知する機能が備わっています。 わたしは、気を引き締めました。 遺物は時に、人を狂わせ、その本能を剥き出しにさせます。 そこには犯罪性が産まれやすく、危険な目に遭うことは少なくありません。 酒場の店主さんに聞いた話を、思い出します。 今この街で起きている、子連れの母親ばかりを狙った連続通り魔事件——おそらく、そういうことでしょう。 レーヴァに導かれるままに、路地裏を進みます。いくつもの角を曲がり、住宅街の奥へ奥へ。 方向感覚が徐々に失われていきます。 自分が立っている場所が、不確かなものになっていく不安。常識が、夜の闇に呑まれる錯覚。 まるで違う世界へと迷い込んでしまったかのような—— 歩みを進めるにつれ、嫌な予感がひしひしとしました。 これは殺気。あるいは憎悪。 ねばっこく、体にまとわりつくような気配。喉を鳴らします。背中を冷たい汗が伝いました。 進みたくないと、本能が告げています。 けれど、歩みを止めるわけにはいかず——やがて、幾度目か分からない角を曲がった先——。 わたしは——目を疑いました。 一人の若い男性が、しゃがみながら何かへと向かって、ナイフを、一心不乱に振り下ろしていたのです。 月明かりに妖しく照らされる、赤々とした何か。 赤とピンクと白と黄色と。 肉と骨と臓物と脂肪と。 とても鮮やか。 人の手のようなものが見えました。 人の足のようなものが見えました。 人の頭のようなものが見えました。 人の髪の毛のようなものが見えました。 あの肉塊は、つまり人で。 人はつまり肉塊で。 明らかな異常。 特異。非日常。事件。 殺人。殺害。蹂躙。陵辱。冒涜。征服。破壊。 破壊破壊破壊破壊破壊破壊。 人を、バラバラに。 解体。 食い散らかすように。 憎しみを。 あるいは快楽を乗せて。 男は、ナイフを、振り下ろします。「——っ」 言葉が、出ませんでした。 やがて、男がこちらに気付きます。 さして慌てた様子は無く、ゆっくりと立ち上がり、こちらを見ます。 視線が交錯し、わたしが腰の【 終焉たる救世主 ( レーヴァテイン ) 】に手を伸ばした刹那。 男の姿が、かき消えました。 知覚出来ない程の速度ではありません。 油断していたわけではないのです。 けれど、臨戦態勢に入る間の僅かな意識の隙間。 人を傷付ける為の覚悟の差が、初動の差を決定付けました。 反応出来ず。 喉元に迫った凶刃。 そしてわたしの意識は遠のき—— 霧散 ( むさん ) するのでした。