681話 お風呂上がりのひととき
681話 お風呂上がりのひととき
アリアとピクシーが他愛のない話を続けてしばらくしたころ、湯気の向こうでアリアがふっと伸びをした
「そろそろのぼせそうだから、私は上がるわね」
「失礼しました。大丈夫ですよ」
「じゃあ私は先に」
「はい。私はこれを片付けてから上がります」
「頑張ってね」
「はい」
アリアはゆっくりと湯船から立ち上がり、雫を払うように一度肩を回してから浴室を出ていった
ベルはその背中を見送ると、そっと手をかざし、湯の上に広がる桜の花びらがふわりと浮き上がり、ひとつ残らず空間収納へ吸い込まれていく
そして、ベルは続けて湯そのものにも指先を向けた
静かに湯面が揺れ、もともと何も無かったようにお湯が消え、残ったのは、わずかな湯気と、温かさだけ
そこへベルは新しい湯を満たしていき、湯気が生まれ変わったように澄み、香りも混じり気のないものへと変わった
「これでよし」
ベルは整った湯面をひと目確かめてから、そっと浴室を出た
「ベル、湯船から出てから1回流したけど、花びら残ってない?」
「大丈夫ですよ」
「そっか、なら良かった」
アリアは安心したようにタオルで体を拭き始め、その気配を感じながら、ベルは魔法で体についた余分な水分を静かに吹き飛ばした
「何それ……ズルくない? 私ちゃんと拭いてるのに」
アリアはタオルを握りしめたまま、じっとベルを見つめた
「気のせいです」
軽く肩をすくめてそう答えると、ベルは指先を小さく動かし即着を発動し、一瞬でいつものパジャマに変わり、何事もないように呼吸を整えた
「……あの、はい。私もお願い」
タオルを胸に巻いたまま、アリアは少しだけ視線を外しながら両手を広げた。
その仕草には、遠慮と甘えが静かに混ざっていた
「手間のかかるお嬢様ですね……」
そう呟きつつも、ベルはどこか諦めたように手を払った。
次の瞬間、アリアの肌に残っていた水分はさらりと風に溶けるように吹き飛んでいった
「体の水分は飛ばしましたが、髪は乾かしてくださいね」
「あ、髪はやってないの?」
「はい。髪は少しだけ整えただけです。肌と違って水分を吸い込みますし、飛ばしすぎても残しすぎても傷むので、ここは普通に乾かした方が安全なんです」
「え〜……ちょっとくらい楽できると思ってたのに」
小さな不満をこぼすアリアに、ベルはいつもの無表情で言葉を返した
「髪が傷んで櫛が通らなくなったり、朝起きたら大爆発していても良いならやりますけど」
「……それは困るわね」
アリアは肩を落としながらも、納得したように息をついた
「乾かすのはあそこだから好きに使ってね」
そう言って、アリアは壁際の台に置かれたドライヤーらしき器具を指さした
「いえ、私には必要ありません」
ベルの髪が風にそよぐように揺れ、数秒でさらりと乾いて落ち着いた
「……便利ね、それ」
声の方へ視線を向けると、パジャマ姿になったアリアが戻ってきており、濡れた髪先からまだ少ししずくが落ちていた
「私も、お願いしていい?」
「はいはい、どうぞ」
アリアが腰を下ろすと、ベルは静かに背後へ回り、指先で風を操るように髪をふわりと持ち上げた
ほとんど乾いたところで、ベルの指がわずかに止まり、空間収納へとそっと触れた。
次の瞬間、透明な雫が指先に1粒落ちる。淡く光るヘアオイルだった
ベルは何も言わず、それをアリアの髪へ優しく馴染ませていく。
髪がしなやかに解け、ふわりと柔らかな香りが広がった
「……なにこれ、いい匂い……」
アリアは驚いて振り返りかけたが、ベルに軽く頭を戻される
「動かないでください。まだ途中です」
「ん……」
アリアはくすぐったそうに肩をすくめながらも、大人しく身を預けた。
ベルの指が通るたび、髪は静かに整っていった
「終わりました」
「ありがとう。それで、さっきのいい匂いのやつは何?」
アリアがそっと髪の先を摘み、ふわりと漂う香りを確かめるように鼻を近づけた
「ただのヘアオイルですよ。髪の保湿やツヤ出し、引っかかりの軽減にも役立ちます。それと、少しだけ香りをつけることで上品に仕上がります」
「へぇ……そんなので変わるんだ」
ベルは最後に指先で髪の流れをそっと整え、アリアから手を離した
「じゃあベルからいい香りがするってことは、ベルもこんなやつつけてるってこと?」
「いえ、私は付けていませんね」
「どうして? ベルからはいい匂いがするのに」
アリアは首をかしげながら、ベルの方へわずかに顔を寄せた
「私のこれは、付けているというより……勝手に染み付いて消えないものなんです」
「染み付いて?」
「はい。理由を説明すると長くなるので割愛しますが、私の体質だと思っていてください」
アリアは「ふうん……」と小さく呟き、納得したようなしないような曖昧な顔でベルを見上げた
「染み付いてるってことは……この液体に浸かってるの?」
ベルは一瞬だけ瞬きをして、アリアの想像力の方向に軽く驚く
「そんな馬鹿なことはしてませんよ。ヘアオイルの香りの元になってる花びらの方には埋まってますけど」
「何それ」
「私の暇つぶしです、あんまり気にしないでください」
「気にするなって言われても気になるんだけど……」
ベルは小さく息をつき、思い出すように視線を落とした
「……前にこの花びらは見せましたよね」
そう言って、桜の空間からふわりと花びらを1枚指先に呼び寄せて見せた
「うん。前にみんなでお昼ご飯食べてる時に見せてくれたね」
「この花びらが沢山積もった場所があるんです。私しか行けない特別な場所が。そこで私は横になっているので……香りがこうやって移るんですよ」
アリアが半眼になりながらベルを覗き込んだ
「花びらの香りが取れなくなるほど染み付くって……一体どれだけの時間横になってるのよ」
「1日10時間くらい」
ベルは小さく咳をするように視線をそらし、申し訳なさそうに答えた
「暇なの? それとも……一緒に遊んでくれる人がいないの?」
「いえ、ただ私がそうしたいのでそうしてます」
ベルはそのまま目線を落とし、胸の内で小さくつぶやいた
(普通の人が寝ている時間=俺が埋もれてる時間なんだから、こうなるのも仕方ないよね……うん)
アリアは少し口を尖らせながらも、どこか心配そうに続けた
「ベルの好きにしたらいいけどさ……ただ横になってるだけなら、友達と遊んだり他にも色々できるんじゃないかなって思うの」
「私が埋もれているのは暇な時だけなので、必要な時は埋もれてませんよ。現にカールン王国へ来てから1度も埋もれてませんから」
ベルは静かにそう告げ、ほんの少し胸を張ったようにも見えた
「そう。ベルは髪乾かしたり、他のことも終わった?」
「はい。既に終わっています」
「そっか、なら部屋戻ろっか」
アリアは軽く息を整えるように肩を回し、ベルの方へ手を差し出した。
ベルがその手を取ると、パジャマ姿の2人は寄り添うように手を繋ぎ、静かな廊下を歩いて戻っていった