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十億人

転移した杞人、異世界を憂う — www.pagemeku.com · All chapters

十億人

何年か前まで、私はこの世の仕組みをよく知らなかった。

空は何故、我々の頭上に貼り付いているのか。いつか突然、落ちてはこないものなのか。空の上には、何があるのか。

地は何故、常に我々を乗せているのか。地の下には、何があるのか。いつか突然に地が崩れて、その下に落ちてしまわないのか。

そういうことが、不安で仕方なかった。

毎日のように、憂いては怯えていた。

だから余計に、世界を知ることができなかった。知ろうとして行動するのが怖かった。

そんな私を変えてくれたのは、あの人だ。

あの人は私に、この世の仕組みと構造を教えて、わたしから不安を取り除いてくれた。だから私は、更に世界を知ろうとする心を持てるようになった。

あの時から私の人生は始まったと言っても良い。

私はあの時まで、永い夢を見ていたかのようだった。

あの人とは最近会っていないが……今頃どうしているだろうか。健やかに、息災に過ごしているだろうか。

……会いたい。

ここにきてそんなことを、今更、思ってしまった。

「……ああ」

日差しが顔にかかる。また朝だ。

ここに来てから今まで一度も、眠ってなどいない。眠ったら、無意識に身体が動いてしまうかも知れないからだ。

しかし、おや?これは何度目だ?

何度目の朝だ?

私は…えーと…日数を数えていた筈なのだが……

3日目を数えた辺りから、忘れてしまった…?

いや待て、そんなことがあるか?私は確かに意識がぼおっとしたままで過ごしていて、記憶があまり続かないことも多い状態だったけれども、そんなほんの少しの日数をこうまで数え忘れるものだろうか?

何か、おかしいのではないか?

しかし、頭が回らない。飲まず食わずだしな。

疑問を持っても、それだけで精一杯だ。それ以上を考えることは、もうこの状態では困難である。

「…………」

相変わらず、身体は全く動かさないようにし続ける。

気分はそう、あの…音に聞こえし、修行僧なる者達のような感じだ。来世は恐らく、本当に僧侶にでもなるのだろう。

考えても仕方ない分、こうして動きを止め続けるのに集中できるし、もう慣れてきて……

あれ?いや、こうして動きを止め続けるのに慣れてきた分、考えてもあんまり仕方がない…?

……わからなくなってしまった。

もういい。もうそろそろ餓死するだろう。

じきに、その時は来る。

「ーー、ー」

おや?私の左のほうから、音が聴こえる。

馬車が進む音だろうか?人の声も聴こえるような気がする。

まあ、どうでも良い。

「ー、ーーー……ー!?」

何か話しているようだが、私は振り向くこともできない。聞く意味も無いだろうし、どうでも良いだろう。

私には関係無い。

「………!」

……ん?

ん、ん、お?

勢いよく、足音が近づいて来ていないか?そうだ、左から近づいて来ている。私の右に何かあるのだろうか…?

まあ、どうでも……

「何してんだお前はああああ!!!」

……え?

「どうしてだ!どうしてこんなに、こんなに長く…!」

「ブラス…?」

気付けば私の目の前には、ブラスがいた。

私の両肩を掴んで揺すりながら怒声を発しているが……

一体、どうしたというのだ。

「何故、戻って来た…?」

「お前、本当にあれからずっと、ここから動かなかったのかよ!?何考えてんだ!?ふざけるなぁ!」

い、いやぁ、何をそんなに怒っているのだろう?

どうしてそんな、泣きそうな顔をして……

「待て、私から離れるべきだ。前にも言ったろう?私は…」

「もう良い!もう何も言わなくて良い!何も言うな!お前は俺が引き取る!連れて行く!おぉいお前ら!馬車をここへ!」

「あ、待て、ちょっと…!」

言いながら、ブラスは強引に私の身体を引っ張り上げて持ち上げて、馬車を呼び寄せた。

それでも私は、身体のどこにも力を入れる訳にはいかない。

「大きな布を持って来い!それでこいつを運んで行く!」

「待て、今いいところなんだ!もう少しで死ねるんだ!」

「黙れ!……よし、それだ!それを持って来い!」

……嗚呼、そうか。やっと気付いた。

ブラスはあの後も、ずっと気にしていたんだ。

私をここに置き去りにしたことについて、筋違いにも見当違いにも、罪悪感を抱いていたのだろう。

それに堪えかねて、またここに様子を見に来てしまったのだろう。

口では、知らないぞなどと言っていたが……それとは裏腹となる思いを彼が秘めている可能性を、どうして私は考えなかったのだろう?

私は何を間違えた?あのような口喧嘩のような口調で、突き放すような言い方をしてしまったことが、却って同情を買ってしまったのか?

まずいことになった。

「よし、ここに乗せろ。そっちの足も持ち上げろ」

「ま、待て!お前達は損しかしないぞ!?私はどのような施しを受けても、それを受け取ることはできないぞ!?もはや私は、喋るだけの人形だ!自分から動くことは無いぞ!?そんな無駄なものを引き取るためだけに、大きなリスクを払って損もして、そんなことで良いのか!?」

「良い!」

「……えっ」

そ、そんなはっきり言い切られても……

ちょ、ちょっと待てよ、顔が熱くなってきた。

あれ…あ、まずい!なんという間の悪さだ!こんな時に、涙が出てきてしまった!これでは同情を買ってしまう!

何故だ!?何故よりによってこんな時に出るんだ!?

「積み込め!この辺に乗せとけ!」

「でもブラスさん、これって体裁が悪くないですか…?傍から見たら、俺たち人攫いですよ……」

「構わん。お前は嫌なのかブルトゥス?それならそうと、別にお前達まで巻き込むつもりは無い。俺が一人でこいつを背負って連れて帰るまでだ!」

「正気か!?私は叫ぶぞ!?人攫いだと叫ぶぞ!?」

「…はあ。そこまで言うなら、俺達はブラスさんに従いますよ」

「ブルトゥスお前もか!?考え直せ!私を連れ帰っても何にもならん!」

「お前は黙ってろ!」

まずい…!

このままでは、この世界が壊れてしまう。

私が、この世界を壊してしまう…!

「待て!わかったわかった、見せるから!実演をするから!一旦下ろしてくれ、私が身体を動かしたらどうなるか見せてやるから!それを見てからでも遅くはないだろう!?」

「知らん!見せなくて良い!」

「ええ!?」

いや、それについては本当に意味がわからない。

見ておけよ。別に、見るだけなら良いだろう?

見るだけ見てから連れて帰れば良いのに。

もしやこの男、自棄になっているのか…!?

「いや、えーと、冷静になれよ……あっ」

と、そんな悶着の拍子に。

私はつい、手を動かしてしまった。

「あ………」

ほんの一瞬、手がびくっと動いた。

そして、それによって生じた衝撃波と熱で。

ブラスの身体が、消し飛んだ。

◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「…………」

「…………」

私の視界の端には、馬車の陰に偶然居たためかろうじて助かった男が、一人座り込んで怯えているのが見えたような気もしたが、そんなことはよくわからない。

よく見えない。よく知らない。よく考えていられない。

よく、よく……よくも。

よくも、冷静になれなどと。

ぬけぬけと、言えたものだ。

「な……なんなんだ……お前……」

「…………」

怯えているその一人の男と私を除いて、ここにはもう、生きている者は誰もいない。

みんな死んだ。私を引き取ると言い張って何を言われても聞かなかったブラスも、それに同意したブルトゥスや他の男達も、身体が吹き飛んで即死した。

しかし、しかしな。

今怯えているその男よりも、さっき私をヤケクソになって引き取ろうとしたブラスよりも、誰よりも冷静でなかったのは私だった。

何が、冷静になれだ。

これまで何日も、ずっと身体を微動だにせずに過ごしてきておいて、今更どうして、動いているのだ。

何をそんなに、動揺しているのだ。

涙まで流して、同情を買うリスクを高めて。

私は一体、何をしたいんだ。

何がしたいんだよ。

「……いや」

「ひっ…!」

いや。

本当はわかっている。

ずっと、考えないようにしていたんだ。

ハハハ……自分のことなのに、何を忘れているのだ私は。

最初に言ったじゃないか。

最初に叫んだじゃないか。

助けてくれ、と。

「あは、あははは……」

「ぃいぃぃ…!ばっ、化け物…!」

私は、本当は助けて欲しかったんだ。

最初から、誰かが助けてくれることを願っていたんだ。

あの時。

ブラスが私を引き取るだの何だのと言って、強引に連れて行こうとしたのを、私が必死に止めようと、文字通り懸命にやめさせようとして、『お前は損しかしないぞ』と論ったのに……『それでも良い』と、彼に断言された時。

嬉しかった。

どうしようもないくらいに嬉しかった。

救われたような、気がした。

だが……それでも、どうしようもないのだ。

嬉しいから、何だと言うのだ?

嬉しければ、人を破壊しても良いのか?

嬉しければ、人を消し飛ばしても良いのか?

嬉しければ、世界を滅ぼしても良いのか?

そんなこと。

そんな訳、無いだろう…!

「ブラス……愚か者め。お前は本当に愚かだ……」

「だ、誰か…!助けて…!」

これまでの全てを想い起こし、全ての感情が込み上げてきて、私は滝のように涙を流しながら、しかし口調は穏やかだった。

穏やかな口調で、融けかけの遺骨に語りかけた。

「こんな私に、歓びを教えてしまった。嬉しさを教えてしまった。希望を見せてしまった。幸せを見せてしまった」

「はぁ、はぁ…!誰か…!」

「お前にまた会いたいと、思わせてしまった」

そう言って、私は。

全てを諦めて、全てを捨てて、全てを手放して、全てを打ち棄って、全てをやめにして。

全力で、ブラスの遺骨を抱きしめた。

この世界に来てから初めての、全力だった。

元の世界でも出したことの無いくらいの、全力だった。

その拍子に、私の足が地面を踏み抜き、砕いた。

周囲を灼く光。

弾け飛ぶ景色。

崩れ去る地面。

そして、黒く塗り尽くされる世界。

そんな世界の終わりを横目に。

とうに蒸発した、彼の遺体を抱きしめたままで。

私は再び、世界を憂うのをやめた。