3話 忘れた頃にやってくる転機 2026年10月15日 公開
3話 忘れた頃にやってくる転機 2026年10月15日 公開
「この十年、君はよく務めてくれたね」
ある穏やかな昼下がりのこと。
ラビリニ家当主、ア・ジグル・ラビリニが俺にそう言った。
執務室へわざわざ呼びつけてこれだ。
この意味深な言葉の後に何が来るのか。非常に怖いのだが。
つやのある厳かな執務机に組んだ両手を置き、わずかに微笑みながら、ジグル様は俺を見ている。優しげで、どこか頼りない風貌の旦那様だが、こう見えて夫人が四人、子供が六人いる大家族のご当主様だ。
威厳はほぼないが、今この瞬間の旦那様には上に立つ人間としての風格があった。俺は一介の使用人に過ぎないということをひしひしと感じる。
つまりこれは、あれか。
クビ宣言か。
……と一瞬思ってしまう状況だが、そんなわけはない。使用人としての勤務態度が表向き完璧な俺がクビになるはずがない。
そして、いくら旦那様が貴族だからといって、不当な解雇をする権利はない。使用人は最強なんだぞ。
じゃあ何なのか。
「ディル、君の働きは非常に良いものだったよ。おかげで私たちはおおむね平穏な日々を過ごすことができた。しかし──」
きた。
まさか本当にクビなのか……? 俺は背後で組んだ手を固く握った。
旦那様は悲しそうに首を振ってため息をつく。
「──契約期間の上限が迫っている」
契約満了のほうだった。
クビじゃなくてよかった。肩の力を抜く。
……いや、よくないが?
つまり、もうすぐ俺は十年働いたこの屋敷から出ねばならない、ということだ。状況はほぼクビだ。
どうするんだ俺。
使用人としてうまくサボ……やっていくことに集中していたせいで、契約期間のことをすっかり忘れていた。
「君が我が息子ロアンの世話役になってくれて、本当に助かっていたのだよ。思えば、いろんなことがあった。幼かったあの子が、今やこんなに……」
何やら遠い目をして昔話を始めた旦那様だが、俺はそれどころではない。
十年という月日は、根を下ろすには十分な期間だ。つまり、せっかく作り上げてきたルーティーンをまた一から構築しなければならない。実に億劫である。
この国では、使用人は一つの職場で十年以上働いてはいけないという決まりがある。累計での計算なので、長期休暇分などを差し引きすればなんとか数ヶ月延ばせるかも……いや、ダメだ。みっちり勤勉に働いてきたのが仇になった。
職場が変わるのは嫌だな。
こんなにサボ……効率的に仕事ができる職場はなかなかないだろうに。
無理に契約を延長しようとすると煩雑な手続きに圧倒される上、使用人としてのメリットがなくなってしまう。
一体誰だよ、こんな制度を作ったのは。
密かに悲嘆していると、気持ちが漏れてしまったのか旦那様が気遣わしげな目を向けてきた。
「君もロアンと別れるのは寂しいだろうけど……あの子のためにもこれが最善だから」
いや全く、と言いそうになるのをグッとこらえた。
寂しいとか寂しくないとか、そういう話じゃない。
どうも、この人は自分の基準で物事を考えがちだ。全人類がロアン坊ちゃんのことが大好きなはずだという前提で話すのはやめてもらいたい。嫌いではないが、俺は仕事をしていただけだ。
そもそも、この家の人間はロアン坊ちゃんのことを溺愛している。しすぎている。
第三夫人がロアン坊ちゃんを出産してからというもの、それまで対立していた第一夫人と第二夫人が赤子に夢中になった。険悪だったその子供たちまでもがロアン坊ちゃんに構いっぱなしになる。
冷戦状態で崩壊寸前だったラビリニ家は、一変して笑顔の絶えない温かな家庭になったのだ。
一方で、ラビリニ家の面々はすべての業務を放棄してロアン坊ちゃんに構ってしまったため、別の意味で崩壊しそうになった。
そのため俺が雇われた。
他の家族との予定の調整をして、過干渉を防ぐための緩衝材のような役割だ。どの日、どの時間にお茶をしたり遊んだりするか、といったことから、ロアン坊ちゃんの様子の報告などが主な業務内容だ。
五歳の子供の世話というから保育士のような仕事かと覚悟を決めてやってきたわけだが、完全に秘書じゃねえかと思った。
ロアン坊ちゃんは大変聞き分けがよく、迷惑をかけられた試しがない。これがいたずら好きな悪ガキだったら俺は早々に辞めていただろう。
その分、ご家族からはけっこう恨まれたが。
ロアン坊ちゃんとの触れ合いを制限する嫌なやつ、という役回りになったので当然だ。
それも受け流してしまえばどうということはない。
いい職場だ。
……だった、か。
「……ロアンが学院を卒業するまでまだ三ヶ月ほどある。上等学院へは進まないようだと聞いているよ」
「そのようです」
「『学院卒業まで』という約束だったし、ちょうど契約の上限が近づいたので君にこうして声を掛けたんだ。少し早いが……」
「いえ、早めにお声がけいただきありがとうございます」
契約満了は残念だ。
しかし考える時間があるのはありがたい。
このまま契約延長、つまりラビリニ家の専属使用人になるという道。
契約満了後、別の職場に異動するという道。
そして、使用人をやめるという道。
どれを選んでも食うに困ることはないが一長一短で、即決しかねる。
どうしよう。
ちょっとばかり情けない気分になった。
「……どうしよう。ようやく安定した我が家がまた立ち行かなくなってしまったら。いや、ロアンももう大きくなったし……でもディルがいなくなれば皆があの子に構い始めることだろう。私だって我慢してるんだ……やはり、君との契約を延長すべきかな?」
俺より情けない顔の旦那様がいた。
先程までわずかに感じていた威厳は見る影もない。
大丈夫か、この人。
こんな小動物のような有様でどうやって魑魅魍魎が蠢く貴族界を渡ってきたんだ。一瞬で踏み潰されそうだぞ。
俺は自分のことよりラビリニ家の未来が心配になった。
俺はまだ情けない顔で心配事を語り続ける旦那様を前にして、遠くを見つめ続けていた。
二十六歳にして、俺、ナディル・カイエンは十年勤めた職場を退職することになりそうです。
この先どうするか、まだ決まっていない。